広報担当です。
来月4日、神尾真由子with Friendsの演奏会で幕を開ける、2023年度年間企画「シューベルト――約束の地へ」。シリーズを企画・監修するホールの音楽アドバイザー堀朋平が、ヴァージニア・ウルフの物語と、シューベルトの弦楽五重奏曲(D956)のメロディから、「時を超えて心に残るもの」に思いを巡らせました。
(C)樋川智昭
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気がつけばもう5年間もヨーロッパに出かけていないので、湿気のない爽やかな初夏というものを、もはや思い出せないほど。梅雨なき6月の都市で、かつてこんな考えをめぐらせた女性がいました。たえず動きまわる人々のなかに、その意識の波のなかに、死後の自分は溶け込んで生きつづけたいと。とても東洋的な発想です。
女性の名はクラリッサ・ダロウェイ。今からちょうど100年前、一次大戦の傷跡がのこる1923年のロンドンの一日を描いた小説の主人公です。冒頭まもないシーンで彼女はこう独白します――。
死はすべての終わりにはちがいないが、にもかかわらず(…)なにかのかたちでロンドンの街並のなかに、諸物の干満に揺られながら、ここそこに生きつづけると信じられるならば、それはむしろ慰めになるのではないかしら?(…)ちょうど靄が木々に支えられるように、わたしがいちばんよく知っている人たちのあいだに、靄のように広がりながら、彼らの枝に支えられて。はるか遠くまで生き残ってゆく、わたしの人生が、わたし自身が。
(『ダロウェイ夫人』丹治愛訳、集英社文庫、21-22頁)
作者のヴァージニア・ウルフ(1882-1941)は、ロベルト・シューマンと似た精神の病に悩まされたひと。最愛の人に美しい遺書をのこして59歳で命を絶ってしまいましたが、ダロウェイ夫人の願いは映画の世界でかなえられました。2002年のアメリカ映画“The Hours”。
このhourという単語は、たとえば「夜中の3時間」とか、一定のまとまりをもった時間そのものを指しますが、時空を超えた複数形の「時間たち」の意味にもなります。映画では『ダロウェイ夫人』という物語が、ちがう時代を生きる女性たちを出会わせる 3つの時間が描かれます(図1,2)。なので邦題の『めぐりあう時間たち』は絶妙な翻訳。
図1:映画『めぐりあう時間たち』(2002年)。ウルフ役ニコール・キッドマンの気高さが印象的だ。
図2:オペラ『めぐりあう時間たち』(2022年)。映画をベースに2022年にメトロポリタン歌劇場で初演。こちらはケヴィン・プッツが作曲した。
音楽を書いたのはフィリップ・グラス(1937-)です。短いモティーフを増殖させるミニマル・ミュージックの手法に、いわゆる「運命」動機が織り合わさることで、ひとの命の「反復」と「悲劇」をめぐる原作のテーマが強烈に深められていました。狂気の詩人がもつ気高さが強調されている点でも、すぐれてシューベルト的な映画といえましょう。
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さて、ヴァージニア・ウルフが半生を過ごした邸宅は、首都からおもいきり南下して、ドーヴァー海峡もすぐ目の前という田舎町サセックスにありました。そんなに遠くないところ、ロンドンからほんの10キロほど南にノーウッドという小さな町があります。コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの帰還』に収録された短編のタイトルに使われたこともある郊外で、その作中でも市内からさほど遠くない描写があります。
この地に眠る、ひとりのヴァイオリニストをご紹介しましょう。ウルフの同時代人なのですが、じつはこの人について私はほとんど語るべき情報をもっていませんので、墓石をご紹介させてください(図3)。
芸術家・音楽家/ジョン・ソーンダース(1868-1919)の/称えられた愛すべき思い出に/
その下に音符が刻まれています。シューベルトの弦楽五重奏曲(D956)、第1楽章から、第2主題です(譜例)。さらに所せましと、楽譜の行間になにやら文字が読めます。
「息があって目が見えるかぎり/これは生きつづけ、きみに命をあたえる」
シェイクスピアの名高いソネット第18番の結びです。「夏」と「きみ」を比べた熱烈な恋愛詩は、およそこう歌っています――はかない「夏」の陽ざしよりも「きみ」は美しいよ、「これ」が、つまり他ならぬぼくの詩行が、そのすばらしさを永遠に刻むのだからね。
ですから、シェイクスピアの詩行を音楽に変えたこの墓碑銘において、「これ」とはシューベルトの第2主題のことなのです。この話については拙著『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)でもう少し詳しい分析をしていますので、ご興味があったらぜひ開いてみてください。
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いまや名もなきヴァイオリニストが伝えてくれたように、シューベルトの音楽では、勇ましい「第1主題」より、その2~3分後にあらわれる「第2主題」のほうが慈しまれ、なんども反復され、そして楽章を超えて存在感をあらわにしてゆきます。
もういちど楽譜を見て、この第2主題を口ずさんでみてください。
チェロが奏でる中音域のメロディ。どこから生まれたのか、起源もさだかでない、シンプルでいながら神秘的なふしまわし。「天使のしらべ」とか「聖なるメロディ」と呼びたくなるこのテーマは、第2楽章の冒頭で呼び返されるだけでなく、全楽章にそのムードを浸透させています。そう、地に神聖が沁みわたるかのように。
天にのぼるだけではありません。このメロディは世紀を超えて、おもわぬところに顔を出します。たとえばジョージ・ガーシュウィン。愉快なメロディを量産したこのアメリカの作曲者は、ミュージカル『ケーキを食べればいいじゃないLet 'Em Eat Cake』(1933)のなかで、シューベルトのこのメロディを陽気な街の歌に変えています。おもわずクスっと笑ってしまうパロディ。
聖性と俗性は、すぐ隣りあっているものだ――とぼけた笑顔のにあう作曲家は、こういう話にも、きっとうなずいてくれるにちがいありません。
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「シューベルト――約束の地へ」では‘神々しくも芳醇なる’後期の作品群を様々なジャンルにわたってご紹介します。
弦楽五重奏曲(D956)は初回、8月4日公演でお聴きいただけます。演奏時間50分を超える大曲ですが、堀さんがご紹介したメロディだけでなく、全曲が多彩な楽想に満ちた、シューベルトらしさがつまった作品です。「チェロ2台」が支える独特の五重奏の響きを是非ご体感ください。チケットは好評発売中(オンラインで、当日まで購入可!)です。皆様のご来場をお待ちいたしております。
シューベルト――約束の地へ
Vol.1 地に沁みわたる神性
神尾真由子with Friends
2023年8月4日(金)19:00開演