※歴史に興味のない方には苦痛です。
和宮がその生涯を閉じたとされる箱根。
そこに浄土宗・阿弥陀寺がある。
その本堂は1784年、今の小田原市の庄屋の家を移築したものらしい。
玄関屋根を支える柱に木札がかかっており、『皇女和宮香華院(こうげいん)』とある。
言い伝えによる。
と、和宮は脚気を患い、明治10年(1877年)の夏8月7日に塔ノ沢の温泉旅館「元湯」に来たという。
箱根での湯治を勧めたのは伊藤博文とのこと。
孝明天皇の急死。
この時、岩倉具視と伊藤博文の手による暗殺との噂が広がった。
孝明の妹・和宮にも彼らが接近してきたことになる。
伊藤博文はテロリストである。
文久2年(1862年)12月21日に麹町で国学者の塙忠宝(はなわただとみ)を斬殺したのは、伊藤博文と山尾庸三(ようぞう)だった。
これは、渋沢栄一の証言で、誰も否定しないので定説になっている。
その伊藤直々の勧めで、和宮が箱根にやってきたのだ。
電車も自動車もない時代、何故に脚気で弱っている病人を「天下の剣」と呼ばれる難所、箱根に送ったのか?
近場の熱海ではいかんかったのか?
が、和宮の脚気は一時、歌会をするまでに回復したという。
が、9月2日に死去。
阿弥陀寺は、芝の徳川家菩提寺である増上寺の末寺になっている。
その縁で、当時の住職・武藤信了が和宮の通夜密葬を取り仕切った。
通夜を阿弥陀寺で行ったあと、本葬は東京で執り行うことになった。
が、その後東京からの知らせが一向に来ない。
東京での本葬をどうするか?
関係者の間では、皇族であるから神式葬ではないか、いや徳川家茂の未亡人であるから増上寺で仏式葬ではないか、と激論となった。
仏式でやるにしても、明治政府は廃仏毀釈という仏教弾圧の最中であり、しかも皇族の和宮であるから、ややこしい話になってしまったのであろう。
結局、和宮の遺言「将軍のお側に」という言葉が取り上げられ、場所は増上寺、時は9月13日と決っした。
が、いくら箱根が涼しいとはいえ夏である。
本葬までの11日間、さぞや遺体の傷みが進んだのではなかろうか…
阿弥陀寺には、和宮の位牌が祀ってある。
が、その位牌に書かれている法名が奇妙なのだ。
静観院殿二品親王好譽和順貞恭大姉
和宮が男であれば「殿」と「親王」でいい。
が、和宮は女性であり、「宮」と「内親王」となるはずである。
宮内省の正式発表は明治10年9月5日。
静観院宮二品内親王好譽和順貞恭大姉
※その後「一品」と追贈)
と、こちらは「宮」と「内親王」と訂正された法名になっている。
阿弥陀寺法名:静観院殿二品親王好譽和順貞恭大姉
宮内省法名 :静観院宮二品内親王好譽和順貞恭大姉
何故に阿弥陀寺と宮内省で法名が違うのか?
阿弥陀寺の法名は男に見える。
が、最後に「大姉」が付いている。
明治天皇は今の天皇とは比較にならない程の権力を握る、大日本帝国という軍事国家の元帥である。
仮にもその叔母の法名を「間違えた」では済まないはずである。
不敬罪は明治13年(1880年)に明文化されている。
が、それ以前はもっと酷いお咎めがあり、法名であっても寺側は命懸けで付けたはずである。
そもそも和宮の遺言「将軍のお側に」で仏式にした、という点も妙である。
遺言の証言者は何者?
下級の付き人ならば相手にされないはずである。
が、上級の介添えが存在していたという話も伝わっていない。
それ以前に、孝明天皇の妹であり、将軍・家茂の正妻だったにもかかわらず、看病の記録やその様子を物語る口伝一つ存在しないのである。
既に仏式で通夜を済ませ、この法名は阿弥陀寺から増上寺は無論のこと、宮内省にも届いているはずである。
にもかかわらず、神聖なる寺の決定を勝手に覆し、「殿」を「宮」に、「親王」を「内親王」に変えたのだ。
これは、宗教上言語道断なる所業である。
どういう経緯があったのか?
想像ではある。
恐らく、増上寺は法名を見て驚き、宮内省も「殿」と「親王」では困ると抗議したはずである。
が、阿弥陀寺は突っぱねた。
阿弥陀寺には「殿」と「親王」でなければならない仏法的な理由があったはずなのだ。
そのまま素直に考える。
ならば、棺に納まったのは和宮ではなく、親王の身分である男性だったのでは?
が、法名の最初「静観院」と最後「大姉」の意味が気になる…
虚構の枷になきながら
移り行く世に眼を閉じて
仏の御手にすがる身の
悲しや皇女和宮
時の流れの、はかなさよ
昔をかたるものもなく
ゆかりを秘めてこの寺は
三葉葵の紋所 (作詞 千葉仔郎(しろう))
何とも生々しい詩である。
この唄は、昭和49年(1974年)9月2日、阿弥陀寺で営まれた和宮百年忌法要の時にうたわれている。
何故に和宮は、虚構の枷に泣き、昔を語るものもなく、寺がゆかりを秘めているのか?
意味深ではある。
位牌の法名といい、不気味な詩といい、和宮に何があったのか?
穿った見方をする。
と、真夏の阿弥陀寺で11日間も棺を留め置かざるを得なかった理由は、葬式選定で延びたのではなく、遺体の腐乱を待っての隠蔽工作だったのでは?
明治10年(1877年)9月2日に死んだ、或いは何処ぞから阿弥陀寺へ運ばれてきた遺体は和宮でなく、親王の身分をもつ皇族だった可能性がある。
つづく