左手首哀史 2 | おやじのたわごと

おやじのたわごと

タイトル通りの『たわごと』です。

※歴史に興味のない方には苦痛です。

 

 

 

 

和宮は仁孝天皇の第八皇女で、幕末最後の天皇・孝明の腹違いの妹になる。

且つ第14代将軍・徳川家茂の正室でもある。

時代を象徴する存在ではある。

が、別人説、複数身代わり説があり、小説家・有吉佐和子もそれを題材に本を書いている。

 

2011年6月16日付読売新聞。

「皇女和宮」写真は別人? 

という記事掲載。

 

いつの間にか他人の写真が使われ、その顔が世に広く認知されていたのではないか? という記事である。

 

 

(読売新聞2011年6月16日付)

 

 

和宮といえば一時代を風靡した超の付く有名人である。

が、これまで辿ってきた通り、明治という時代は何でもありの時代でもある。

その何でもありが延々と令和の時代にまで踏襲され、未だに何でもありなのは言うまでもない。

 

それまで、世間が和宮の写真であると断定してきた根拠は何だったのか?

 

その写真は、小坂善太郎という長野出身の政治家の祖母の所有物。

で、写真の台紙の裏に『和宮』と書かれてあり、明治天皇の正室の女官長(にょかんちょう)が和宮だと証言したと、祖母の日記に書かれていただけである。

 

昭和3年(1928年)の祖母の日記に〈静観院のこと、京都高倉寿子(かずこ/女官長)の証明に相わかりし、うれしきことこの上なし〉と書かれていた。

静観院とは和宮のことである。

 

遡って明治35年(1902年)発行の雑誌『太陽』に、別人の名前で同じ写真が使われている。

『太陽』第八巻第二号「物故諸名士」の口絵写真が、小坂の和宮写真と全く同じであり、大和郡山藩主の正室・柳澤明子刀自(とじ)となっている。

刀自とは、年配の女性に使う敬語である。

しかも柳澤明子の妹は、美子(はるこ)照憲皇太后なのだ。

つまり、明治天皇の正妻・美子(はるこ)なのである。

 

明治35年(1902年)に『太陽』の写真が世に出た時、明治天皇も昭憲皇太后も存命中であり、どこからも抗議が来ていないということはこの写真は正しいという証拠である。

 

 

(雑誌『太陽』第八巻第二号(明治35年発行)の口絵写真)

 

 

写真の所有者の孫・小坂善太郎は明治生まれの政治家。

善太郎の祖父は信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、信濃毎日新聞中興の祖と呼ばれた実力者である。

政治の世界でも祖父は活躍する。

明治23年(1890年)、山縣有朋内閣で実施された第一回衆議院議員選挙から初当選を果たし、以後三期連続で当選。

父親も衆議院議員、貴族院議員を歴任した長野の重鎮。

 

その三代目が善太郎である。

彼は、三菱銀行から長野の大手・信越化学工業取締役となって、34歳の衆議院議員当選を皮切りに、国家公安委員長、外務大臣、経済企画庁長官などを歴任。

その祖母、すなわち伊藤博文率いる立憲政友会メンバーである明治の大物の妻が、和宮と称する写真を持っていたということになる。

 

また昭和3年といえば、当時の首相は田中義一。

父親は長州藩士。

田中は長州閥の大物・山縣有朋の引きで陸軍大臣となっている。

 

写真の裏付けは女官長が口にし、権力者の妻が日記に書いたというだけで、科学的根拠は無。

 

一方、写真の被写体となった柳澤明子の夫は、奈良に位置する15万石の大和郡山藩主・柳澤保申(やすのぶ)。

この男は東禅寺イギリス公使館の攘夷派テロ(1861年)を防いだ功績で、ヴィクトリア女王に称えられた程のリベラル派であり、戊辰戦争でも躊躇なく薩長側につき、東北に攻め入っている。

明治2年(1869年)藩知事となり、明治17年(1884年)に伯爵、翌年には徳川家康を祀る静岡の久能山東照宮宮司となる。

 

薩長明治政府とべったりな関係であり、その正室が明子である。

 

柳澤明子とはどういう人物か?

五摂家の一つ、一条家の出身。

で、その一条家の姉妹が、それぞれ大和郡山藩主と明治天皇の正妻に収まっている。

その大和郡山藩主の妻の写真が、長い間偽和宮として使われていた。

 

和宮は、明治天皇とは系図の上では叔母と甥の関係。

柳澤明子は妹の美子を通して、和宮とは親戚となる。

 

然らば何故に、今以上にうるさかった宮内省は異を挟まず写真を放置したのか?

 

 臭い…

 

 

 

 

『太陽』というのは、何かと物議を醸す雑誌ではある。

創刊は明治28年(1895年)で、その年に戸川残花(ざんか)が、それまで世に伏せられていた「フルベッキ四十六人撮り」を掲載し、波紋を広げた。

 

戸川残花は旧旗本の幕臣であり、薩長の一方的な史観によって幕末から明治にかけての歴史が書かれていることに反発。

勝海舟、大鳥圭介らと共に明治30年(1897年)に『旧幕府』という月刊誌を立ち上げている。

この雑誌は明治34年(1901年)、わずか3年で廃刊。

政府の弾圧があったと思われる。

 

『太陽』は昭和3年(1928年)、奇しくも小坂の婆様が和宮の偽写真を証言した年に531号で廃刊。

 

 …偶然か?

 

何らかの力が働いているようにも思える。

 

 

 

 

日本画家・清水東谷(とうこく/1841~1907年)という絵師がいる。

 

浅草生まれの東谷は、幼い頃から狩野派絵師の父親に絵を習っている。

世間が騒がしくなってくると、幕府の命を受けて長崎に移住。

直ぐにシーボルトと接触し、片腕となって几帳面な植物図鑑の絵を描く。

 

シーボルトの動向を探る密命を帯びていたことは明白である。

が、その間に写真技術を習得。

写真機材一式をシーボルトから譲り受けた東谷は、明治5年(1872年)10月、写真師として日本橋に現れ、翌年呉服町に転居。

ここで宮内省御用達の写真師となって暫く活動する。

が、明治15年(1882年)に、家業の写真店を養子に譲ったらしく、本人は隠居。

 

従って、柳澤明子の撮影は明治15年以前だと推測できる。

 

実を言う。

と、和宮と明子は共に1846年生まれの同じ歳である。

和宮は31歳で他界(したことになっている)し、明子は明治35年没の58歳まで生きている。

写真は恐らく30歳前後の明子であろうと思われるが、偽者としては打って付けである。

 

また、写真を和宮だと偽った女官長・高倉寿子(1840~1930年)については、そのデタラメ証言は昭和3年(1928年)であるから、寿子88歳の時のことになる。

耄碌して間違えた、とも考えられる。

が、美子昭憲皇太后の女官長になる前は、その父親である一条忠香(ただか)に仕えている。

明子、美子姉妹の乳母的存在であり、幼い明子と美子とが遊びまわる家に一緒に生活していたのだ。

 

常識的に考えれば、見間違えることなどあり得んと思えるが…

 

 

 

 

実を言う。

 

と、和宮と称する写真がもう一枚存在する。

モダンな洋装写真で、柳澤明子とは別人である。

 

が、日本女性の洋装は、明治16年(1883年)辺りから始まった鹿鳴館時代以降で、和宮はそれ以前に亡くなっている。

且つ彼女は大の西洋嫌いで、洋装はあり得ん。

 

写真の身元は、盛岡藩最後の藩主の娘で、華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう)の妻・南部郁子である。

 

 

(「洋装の和宮」とされる写真)

 

偽和宮は二人して皇室に縁の繋がる人物である。

且つ、もう一つ共通点がある。

 

二枚の偽和宮写真は、いずれも清水東谷の撮影である。

 

 

 …偶然か?

 

 

 やっぱ臭う…

 

 

 

  つづく