左手首哀史 4 | おやじのたわごと

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タイトル通りの『たわごと』です。

※歴史に興味のない方には苦痛です。

 

 

                     静観院宮作書牘図(さくしょとくず)

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左は東洋文化協會『幕末・明治・大正回顧八十年史』(昭和8年)所収で画家不詳。

 

右は浮世絵師・池田輝方画に漢学者の中根香亭が題言を寄せたもの。

で、題言の日付は大正元年(1912年)。

で、政治家の島田三郎が作画を依頼。

 

どちらも手紙を書く和宮を描いている。

が、中根の題言によれば「徳川家の危急を救うことを決意した」和宮が、朝廷に向けて筆を執った姿ということになる。

 

で、どちらの肖像画も、和宮の左手は見えない構図となっている。

が、わざわざ見えない左手を絵の中心に配し、目立つように強調している感ありあり。

眺めれば眺める程に不自然で、違和感が残る。

 

増上寺の発掘は1958年である。

依頼主の島田三郎は、増上寺発掘の随分以前に和宮の左手がないことを知っていた?

 

和宮の左手が先天的になかった可能性はゼロではない。

が、もしそうなら、幼い頃から噂くらいあってもいいはずである。

事故で切断の可能性も、ほとんどないのでは?

やることといえば書や歌会、カルタ等の遊びくらいで、移動はもっぱら輿か牛車である。

仮に事故で左手欠損となった場合には、やはりその噂が広まっているはずで、歴史のどこかにその痕跡が残っているはずである。

 

 

ところで、右側の肖像画の依頼主・島田三郎は、連続14回当選の衆議院議員である。

が、S・R・ブラウンからキリスト教と英語を学んで洗礼を受けた革新派。

で、足尾鉱毒事件を追及し、その件で明治天皇に直訴を行った盟友の田中正造や孝徳秋水と共に闘った強者である。

いってみれば、島田三郎は反政府的政治家であり、それだけでも和宮の絵には何かあると想像させられる。

 

 

alternate

増上寺の和宮像

 

 

実を言う。

と、和宮の銅像も左手がない。

 

現存する和宮の銅像は全部で四体。

 

最も有名なのが増上寺の安国殿にある等身大といわれる銅像。

で、昭和10年(1935年)前後に寄贈されている。

やはり増上寺発掘の前である。

 

 

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日本女子会館の和宮像

 

 

もう一つは、日本女子会館で金色の厨子の中に安置されている和宮像。

こちらも昭和10年前後に寄贈されている。

 

増上寺の像、日本女子会館の像は共に婚礼儀式に使う衵扇(あこめおうぎ)を手にしている。

が、手の高さや扇の角度が微妙に違う。

し、袖から見える重ね着の枚数も違う。

更には、顔も若干違っている。

何よりも、重ね着に記された家紋が違っているのだ。

増上寺像は菊の紋であり、日本女子会館像は菊の花の影から葉先が5枚出ている紋になっている。

この紋は珍しいものだが、和宮の重箱や小物入れなどの所持品にあしらわれているやんごとなき紋である。

が、一般的な皇女が嫁入り前に使用する慣例的な紋なのか、或いは和宮だけの特別な紋なのかは不明。

 

この二つの銅像の作者は、大阪在住の鋳物師・三代目慶寺丹長(けいじたんちょう)。

依頼人は神戸の中村直吉という人物である。

 

依頼人も作者も同じであるのに、わざわざ二つの鋳型を造って別々の和宮像を製造した意味は?

 

依頼主の中村直吉という人物は、明治13年(1880年)生まれで幼くして両親と死別。

独力で米屋を開業、後に米穀取引所理事長、県会議員にもなった苦労人である。

彼は幼い時の自分に重ね合わせたのか、深く二宮尊徳を敬愛し、多くの尊徳像を三代目慶寺丹長に造らせている。

その目的は、神戸・明石の全小学校に寄贈することだった。

また貧困労働者をメンバーとする「養生会」を組織し、その指導にあたり、44歳にして「兵庫実践少年団」を結成、毎週日曜日、自らがリーダーとなって山野を歩きまわったという奇特な人物である。

そればかりではなく、移民が盛んになると当時のブラジル移民を応援。

神戸港を出発する人々にもれなく手拭いを寄付、その数136,700本に達したという。

 

中村はヨーロッパにも足を向けている。

その後、日本女性がいたずらに西欧化するのを嘆き、「皇国婦道(こうこくふどう)」の必要性を痛感したらしく、折から全国婦人の修養の殿堂である「女子会館」建設計画を知り、日本女性の鑑、和宮像を寄進したというのである。

寄贈は昭和8年(1933年)で、中村53歳の時である。

 

三代目慶寺丹長の人となりは、中村の依頼で数多くの二宮尊徳像と和宮像を造った大阪の鋳物師だとしかわかっていない。

 

中村が日本女子会館に和宮像を寄贈した動機を額面通りに受け取っていいものか?

日本女性の鑑なら、和宮というより山内一豊の妻や秀吉の正妻・ねね、徳川家定正室の篤姫などの方が相応しく思える。

 

何故に和宮なのか?

 

幕末はともかく、攘夷一本槍だった和宮。

明治以後まったく評価の対象外で、話題にすら上らなかった女性である。

しかも単に女性の鑑というだけなら、増上寺と日本女子会館は同じ鋳型の双子像で何ら不都合はない。

が、わざわざ二つの違う鋳型で拵えた。

手の位置を変え、顔を変え、家紋まで別物である。

 

気まぐれでこんなことをするとは思えん…

 

驚くことに、中村直吉は他にも和宮像を拵え、自分の娘の通う神戸市立第二高等女学校と、他にも県一、県二の高等女学校へ寄贈している。

神戸の女学校の三体ともに戦争中に行方不明となる。

が、須磨の一の谷に放置されていた物を、戦後、その土地の購入者が見つけて、地元の自治会と話し合って須磨浦公園に安置。

おそらく行方不明になった神戸の女学校三体のうちの一つではないか、と言われている。

 

もう一体は神戸市立博物館に存在し、これも行方不明になった神戸の女学校三体のうちの一体だと思われる。

 

須磨浦公園にある和宮像は、増上寺や日本女子会館にある和宮像とも違っており、こちらも別に鋳型を造った上で鋳造されたものである。

長い間野ざらし状態であったために多数の擦り傷があり、経年劣化が激しい。

残念ながら衵扇は無くなっており、木製の代用品を当てがわれている。

傷みが激しいためメリハリがなくなり、着物の模様が見づらくなっている。

が、祠の軒下に掲げられた三つ葉葵の紋所からもわかる通り、着物にあしらわれた家紋も徳川の三つ葉葵である。

 

 

須磨浦公園にある和宮像

 

神戸市立博物館にある和宮像

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一方、神戸市立博物館の和宮像も徳川の三つ葉葵の紋である。

神戸の女学校三体の和宮像のうちのこの二体は、同じ鋳型で鋳造された像である可能性が高い。

 

これで和宮像の着物には、増上寺の「十四葉一重裏菊」、日本女子会館の「菊と葉」、須磨浦公園と神戸市立博物館の「三つ葉葵」の三つの家紋があしらわれていることになる。

 

それにしても、左手首から先がない肖像画と銅像である。

和宮の左手欠損は増上寺を発掘して初めて公になった事実で、それ以前には一般人は誰も知らないはずである。

が、それ以前に左手無しの絵と銅像が存在した。

 

少なくとも依頼主の島田と中村は、その情報を得たルートや経緯は不明であるが、和宮の左手欠損の事実を知っており、肖像画や銅像を通じて、左手に隠された悲劇を訴えているのではなかろうか。

特に中村の場合、わざわざ別々の鋳型を造らせた上で、それぞれの家紋を違えるという念の入れようで、彼にはそうすべき理由があったはずである。

 

相手は権力を握っている。

真正面からの告発などできようはずもなく、回りくどい方法を取らざるを得ない。

が、秘密を知っている関係者が目にすれば、意味するところは一目瞭然。

 

“おたくらがどんな手を使って権力を握ったか、あたしゃ知ってますよ”

 

その相手が死ぬ迄プレッシャーを掛け続けることができる。

 

反政府的政治家の島田や正義感の強い(であろう)篤志家の中村なら、義憤にかられてやりそうな気がする。

 

 

 

  つづく

 

 

※画像はネットより拝借。