今日は事務所の電気、もう一つ消してみました。
これで十分!
詳しい事は解らない世界ですが、便利になった分、それが破壊へと
繋がって行く・・・原水爆の発明もそうなのかも知れません。
機械的な操作でTVゲームでもするかのように自然をも操作する、
そんなこと許されるわけがない。
(少し心の内を覗かせてみました)
大震災で被災された方達に”頑張って”という気持ちを伝えることも
大切だと思いますが、何百分の一かも知れませんが、寄り添ってみようと
思いました。
そして、歴史が教えてくれていることに気づくべきだと思いました。
日本は地震列島なので、どこにいても”もしも”のことが起きるかも
知れません。
地震ではありませんが、狩野川台風の大災害の様子を身近な場所
ですので、もう少し見てみたいと思います。
伊東市宇佐美 阿原田での台風体験記
(宇佐美の女性の方)
九月の長雨が降り続いていた。二十六日も、夕方から激しく降っていた。
こんな夜はどこの家庭でも早めに床につく。
何時頃だったか。
うとうとしていた私の背中で、「ゴオーッ」という地鳴りを聞いた。
とっさに主人を起こす。
「水だ!早く逃げろ!」
隣の部屋に舅と義妹二人が寝ていた。鳴き声も悲鳴も、雨の音に消されて
いた。
主人は一歳の娘を抱き、私の手を取って「こっちだ」と叫びながら縁側から
とび降りた。
振り返ると、夜目にもはっきりと、勝手口の高窓を押し破って覆い被さるように
泥水が流れ込んで来た。
「死んでしまう」と思ったと同時に、玄関の方から舅の寝ていたふとんが流れて
いるように見えた。
「がんばれ、あそこの家まで行くんだっ」
ようやく助けを求めて高台にあるその家にお世話になった。
一瞬の出来事に何が起きたのか、身体が震えて口もきけない。
いろりで暖をとって人心地がついた頃、消防団の人達が見えた。
「あんたちゃここにいたかね。よかった、よかった。お舅さんち三人も下の家に
いるよ。お姑さんも○○さんちにいるから大丈夫だよ」
その声に、家族全員の無事を知って「よかった」
いつのまにか雨は止んでいた。
夜が明けて、悪夢からさめたように、恐る恐る、まだ音を立てて流れる川を見た。
そこには一瞬にして田や畑や家までも呑み込んだ一面の川原があった。
あの家もこちらの家も、巨大な石や流木に押しつぶされ、無残な
姿をあらわしていた。
(中略)
実家の父や叔父たちがかけつけてくれ、
「えらい目にあったなあ、生きていてよかったなあ、がんばれよ」
と声を掛けられ、母の作ってくれた真っ白のおにぎりをいただきながら、涙が
とめどなく頬をぬらした。
九死に一生を得た私なのに、四十何年も経つと記憶もうすらいで行くが、
今でも大雨が降ると、あの魔物のように押し寄せて来た水の恐ろしさが
脳裏をかすめる。
その後、治山、治水が行われ、川の流れも変えて区画整理が進められ、
現在の平和な里になったのです。
半壊と査定された家の回りにトタンを打ちつけ、夜は板の間にムシロを敷き、
救援物資でいただいた布団に寝て、何ヶ月かを過ごした記憶もあります。
丸山町
伊東線不通により徒歩で宇佐美に向かう観光客
悪夢の一夜のあとの繁華街
当時の数字では、伊東市の被害総額は五十億円におよんだと表現されている
そうです。
この資料が作成されたのは平成十三年度です。
平成十三年度の割合で考えると、当時の五十億円の被害というのは、
約二千億円近い大被害であったと考えられるそうです。
我々の先輩はこのような未曾有の被害にあっても乗り越えて来ました。
良い街にはたくさんの人が集まって来てくれると思います。