新選組の実像に迫ってみるpart6 | 以蔵のblog

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大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

ここ数か月、新選組にどっぷり浸かってる。というわけで、懲りずにまだまだ続けます…「新選組の実像に迫ってみる」6回目!!
今回は、新選組最後の粛清劇である油小路の変について迫ってみます。
慶応3年11月18日(1867年12月13日)、新選組は、同組を離脱後結成した御陵衛士の盟主であった伊東甲子太郎を近藤勇妾宅へ呼び出し、したたかに酔わせたうえ、妾宅からの帰途を襲撃。伊東は、油小路沿いにある本光寺門前で絶命した(と伝わる)。その後、御陵衛士の全滅を図った新選組は、伊東の死骸を七条通りと油小路の四つ辻まで運び囮に使った。狙い通り、伊東の死骸を引き取りにきた御陵衛士残党を、待ち構えていた新選組が多勢で襲撃。大乱闘の末、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が絶命、その他数名は戦う前に逃亡した。
以上が簡単ではあったが、「油小路の変」の内容である。
当時、国内情勢は混沌としており、政権は既に幕府から朝廷に返上され、ある意味無政府状態の真っ只中にあった。そして、この粛清劇の僅か3日前には坂本龍馬が暗殺されている。新選組はその暗殺の容疑にかけられており、暗殺犯として新選組の名を出したのが御陵衛士だという説もある。また、龍馬暗殺の実行犯を御陵衛士だとする説もある。
この龍馬暗殺の1件で、新選組と御陵衛士の間に決定的な亀裂が生じたいうのなら、粛清に踏み切った理由が明らかになるのだが、龍馬暗殺に御陵衛士、さらには新選組が関わっていた可能性はかなり低いと言わざるを得ない。それは、当時御陵衛士は近藤暗殺を決行しようとしていた直前であり、龍馬どころではなかったと思われるからである。また、その数日前には、間者(スパイ)として御陵衛士にいた斎藤一が脱走し、近藤らにこの計画を告げていることから、新選組も御陵衛士壊滅計画の真っ只中であり、龍馬どころではなかったではないかと思われる。
龍馬暗殺以前から新選組と御陵衛士が敵対していたのは間違いなさそうなのだが、表面上はどうも友好関係をたもっていたらしい。そうでなければ、近藤の誘いに伊東が易々と応じることはなかったはずである。伊東は計画がばれているのを全く知らなかったと言っていい、斎藤一の脱走も何の気にも止めていなかったのではないか?あるいは斎藤の演技がかなり巧妙だったということか?。真相は当事者のみぞ知ることだけど、結果的に伊東は近藤の誘いに易々と応じ、のこのこと妾宅に顔を出している。新選組の罠にあっさりはまっているのである。
こうして新選組得意の粛清劇が幕を開けた…この粛清劇に関しては、永倉新八や御陵衛士の生き残りである篠原泰之進などが後年ではあるがきめ細かく証言しているし、同時代にわりと近い段階で記録されているものもあり、粛清現場の近隣の住人の証言もあることから、七条油小路で乱闘があったのは事実である。また、慶応3年11月~翌年2月末の新選組の「金銀出入帳」の11月19日に「七条一件十七人被下候事」とあり、十七両の出金が確認できることから、新選組側は17名の隊士が出動したことが予想できる。
写真は、(上)油小路沿いの本光寺前と(下)七条通と油小路の四つ辻。本光寺周辺は、わりと面影を残しているような街並だけど、七条油小路は血生臭い粛清劇があった場所とは想像もつかない…七条通は車がビュンビュン走るただの大通りとなっており、「油小路の変」を示す石碑などは何もない。
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っというわけで、何となくまとまりのない長文だった(^_^;)次回は頑張ろうw