「個性を伸ばす(尊重する)教育」というスローガンは多くの日本の教育機関で言われています。と言うよりも、日本でしか言われていません。
私はこの言葉が嫌いです。
どこか偽善的で、具体的にどんな教育なのかまったくわからないからです。
個性ってなんでしょう。
手元の辞書によると「個々の人物を特徴付けている性格」とありますが、要するにその人ならではの特徴でしょう。みんなと同じだったら特徴とは言えないので、人とちょっと違っているところとも言えます。
果たして、人と違っているところを伸ばす、尊重する教育はできるのでしょうか。
結論から言うとできません。
特に日本では。
なぜなら日本には個性的な人、変わっている人間を歓迎しない風潮があるからです。
それを端的に表しているのが「KY」という言葉でしょう。
「空気を読め」、または「空気が読めない」という意味ですが、この日本独特の言葉にも出ているように、日本人はその場の雰囲気や相手の気持ちを人一倍気にし、「普通」から外れたものを非難する傾向があります。
何年か前のオリンピックで、スノボーの選手の服装がだらしがないと日本中から叩かれていましたね。
以前読んだ本に、学級崩壊を起こさせない授業のやり方の一つの例として、生徒とのこんなやり取りがありました。
先生「赤鉛筆で丸をつけなさい」
生徒「先生、赤のボールペンでも良いですか」
先生「だめです。赤鉛筆だと言ったでしょう。無いなら貸します」
これを読んだとき、普段少人数のクラスしか見たことがない私は、「集団を指導するときは、こんな些細な違いさえ許してはいけないのか」と衝撃を受けました。
優塾では、生徒が自分で採点をする時、鉛筆だろうがボールペンだろうが、黒はだめですがピンクでも紫でもかまいません。
マルをつけようが☆を書こうが、それも自由です。
しかし、集団を指導するときはそれではダメなようです。
アメリカはどうでしょう。
アメリカは多民族の集まりだという点を除いても、個性的な人が多いです。
しかしこれは、他の人と異なることを気にしない、異質なものを排除しないという風土があるからであって、教育の賜物ではないのです。
例えばアメリカの学校で先生が、「教科書を開いて」と言った時、生徒が「私はその話好きじゃないから、違う小説読んでますね」とか、バイオロジーの授業で「バイオの授業だからって、みんながみんな一緒にバイオをやるなんて、おかしくない? ソーシャルをやる人がいても良いじゃない。一人ひとり違うから素晴らしいんじゃない?」、
または、「私、計算は得意だから、計算問題の代わりに文章題を宿題にしてください」
などと言うことはできないのです。
クラスではみんなが同じページを読み、同じ問題を解かなければいけないのです。
アメリカでは日本以上に細かく型にはめることもあります。
たとえば、図形の証明では書く言葉は決まっていますし、エッセイは型を教えられ、その通りに書けばいい点数がもらえるので、子供はその型に慣れてしまい、チャレンジをしなくなるのです。
エジソンは、学校で先生に「鳥には、どんな種類がありますか」と質問された時、「どうして鳥は空を飛べるんですか」と逆に訊き返したり、1+1=2を習った時に「でも、土をこうやって2つ合わせても1つですよ」と言ったりして、先生に疎んじられたそうです。
こんな子供が30人以上のクラスにいたら大変です。とてもじゃないですが、彼の個性を伸ばすことはできないでしょう。
以上からお分かりのように、日本でもアメリカでも集団教育では個性を伸ばす教育はできないのです。
その点、優塾は個別指導ですので個性を伸ばす教育も可能です。
一例を挙げると、もう10年も前の生徒の孝樹君(仮名)は好きだった女の子、麻衣子ちゃんが日本に帰った後に、彼女のアメリカの家に毎日電話をかけていました。
私に、「でも、いつも『No longer in service』って言われるんです」と言っていました。
学校だったら「そんなこと止めなさい」と注意されるでしょうが、優塾では違います。
「日本の電話番号をゲットしないとダメだよ」とアドバイスしておきました。
ある日彼が、「先生、麻衣子さんの日本の連絡先、ゲットしました!」とニヤッ。
彼はその1年後くらいに日本に帰りましたが、今ごろは立派なストーカーになっていることでしょう。
これこそが、真の『個性を伸ばす教育』ではありませんか。
さあ、あなたのお子さんも優塾に入れて、個性だろうが変人度だろうが、どんどん伸ばしましょう。