「命を咲かす」健康事業と、「心を咲かす」教育事業を展開 株式会社アイウィルビー -28ページ目

「命を咲かす」健康事業と、「心を咲かす」教育事業を展開 株式会社アイウィルビー

アイウィルビーでは、新しい時代の健康と教育についてのあり方を提案します。

愛の子育て塾の卒業生で講師をされている宮崎トミーさんのお話会

お互いがありのままでいて、それで喜びの循環になったら、より愛が深まっていったら、ステキだと思いませんか?
ありのままでいい循環を作るのに、知っておいて欲しいことがあります☆

もちろん、パートナーシップの前に、1人の人間として大切なことがあります。

『最初の角度の一度の違い』が、『我慢』が、時間が経つとどんどん広がってしまいます。
 
男性の特性、女性の特性を理解するのも大事!

パートナーを愛していない人はいない、でも想いが空回り、的外れなだけの場合も多いのです。  
 いい循環になる伝え方をお伝えします☆

私の試行錯誤の体験をたっぷりお伝えします!

またやり方だけでなく、パートナーシップって、ものすごく深いもの。
お互いの先祖から、子ども時代から、抱えてきたものも大きく関わってきてくると思います。
そんな話をワークを交えてお話させて頂きます。

 

 

 

 

感性論哲学を学びたいと思う方への入門講座です。こちらの講座を受けてから東京思風塾に臨まれると、理解が深く、多くの気づきが得やすいでしょう。

偶数月の第1月曜日18:30〜21:00に開催

①4/2(月)18:30〜21:00
②6/4(月)18:30〜21:00
③8/6(月)18:30〜21:00
④10/1(月)18:30〜21:00
⑤12/3(月)18:30〜21:00

 

 

過去開催時の中から

「人生は愛と意志のドラマである」

愛と意志の両方とも力をつけていく事が大切で、どちらか一方ではなく両方とも大切である。
理性能力が知識、技術であるとするなら
愛も能力として育てていくべきものであり、
愛がついていかずに意志だけだと、希薄な人間関係や正しい事は言ってても心では伝わらない、そんな人間関係を作ってしまうかもしれない。

だからこそ、愛について学び、育てていく事が人間関係を解決するきっかけになるかもしれない。

その愛の延長線上において、円滑な人間関係と意志である能力を兼ね備える事が出来れば仕事においてもいい影響を及ぼす。 仕事については人に喜んでいただける能力と人間性を高めて本物の人間になる事を感性論哲学では目的としています。仕事でも私生活でも日々の行動に置き換えた際に感性論哲学があなたの行動に活きる哲学として共に学んでいきましょうという事でお話頂きました。

(20代女性)
心に残ったことは、今私が生きている時代は、とても重大である、ということでした。

今までの哲学の基本、または現代社会の根底にあるものは「理性」である、ということは前回の講座で学びました。そして今回は更に発展してこれからの社会を担う根本となるもの、また哲学は「感性」である、そして今の時代はその過度期である、ということを学びました。

現在の日本は世界でもまれに見る規則に縛られた社会であると私は感じています。

時間を1秒刻みできっちり管理し、それに振り回される人々。また、他人にお世話にならないような生き方を徹底する人々(裏を返せば、他人の世話をみたくないという心の現れなのだろうか)。

私は社会に出てまだ10カ月も満たないのですがこのようなことが今の日本に深く絡みついているのを強く感じています。そしてこの状況は私にとって大変生きにくいものであります。しかしながら「理性」に縛られた現代社会は徐々に「感性」へと移り変わっていくことを今回知りました。個人的にその変化に実感はありません。ただ、私はいわゆるゆとり教育世代なのですが、ひょっとしたらこのことも感性に向かう中の一つの象徴なのだろうか、そうだったらいいのにと、この講座を受けながら考えておりました。

21世紀が始まって今年で15年になりますが、20世紀の終わりの頃から世界中で叫ばれている4つの問題、「環境破壊」、「自然破壊」、「人間性の破壊」、「核処理問題」、これらを解決すれば理性の時代がようやく終焉を迎えるということを学びました。そしてそれを担うのは日本人しかいないという考えに驚きましたが、日本人が代々その血脈に受け継いできた感性、理性時代に大いに花開いた世界最高峰の科学技術など日本人にしか持ち得ないであろう特性を生かせば、4つの問題に終止符を打てる、ということを聞けば大変納得できるものでした。新たな哲学の時代に突入する為、私も日本人の一人として、理性をもってして愛と意志を育てていきたいと思いました。

(20代男性)
参加してみて人間の本来のあり方というか、生きていく中での考え方や思考だと思いました。
また一見、感性論哲学からかけ離れた話題が多くありアメリカと日本、その中で麻が関係しているお話や、その麻の本来の効果、日本古来の阿波忌部についてのお話しなど歴史に関する事まで、関係が薄いものから深いものまでではありますが、繋がった時のワクワクと言いますか、感動といいますかとにかく凄いという一言しか出てこず、とても興味深いお話が聞けました。

そんな中でどの部分が感性論哲学に関係するかというと、阿波忌部の人達の考え方や人生のあり方が感性論哲学に当たる部分だとお話の中でわかりました。そして、現代のこの生きにくい世の中でその考え方を取り入れることこそが感性論哲学だと感じました。

その生き方や考え方、あり方などを色々聞いて今の自分に当てはめた時にこう思いました、今までは自分が精神的な疾患にかかったからで色々なことができなくなったり、自分がこんな風だから今まで上手くいかなかったとか、これからも上手くいかないんだろうなという風に感じていました。しかし、今回の感性論哲学の中に生きていく中でこんな考え方が出てきました。

①「ああだったからこうだった」と②「ああだったけどこうなった」、③「ああだったからこそこうなれた」という3つの考え方です。

私は、その時に今までの自分は一番はじめの考え方が強かったのですが、その話が出てきたときにすぐに自分の考え方に疑問をもちました。

私は今の考え方でこれから幸せになれるのだろうか、安心して暮らせるようになれるのだろうか、このままだと今まで同じような暮らしになってしまうのではないかと思いました。

(40代女性)
「現代が理性の時代から感性の時代に移る過渡期であるということ、そしてその過渡期を担う民族が日本人であるということ、日本の文明、技術などが理性の時代にもたらされた負の遺産を解決するために大変重要な役割を担うことになる」というお話がありました。

ちょうど私は自分の仕事を通じ、2020年のオリンピックに向け、「日本に興味を持ってくれる外国の方に、日本的なモノ・コトを紹介するだけではなく、日本人の美意識とか、まごころのあり方とか、自然に対する感性とか、日本的モノ・コトの根底に流れる精神もきちんと伝えたい。そのことによって、日本人自身も忘れかけた祖先から脈々と受け継がれてきた大切なものを再発見できるのではないだろうか?」と考え続けていたところでしたので、松前さんのこの言葉が自分の心に強くに響きました。

感性哲学については、まだまだ勉強不足ですが、先日の講義を聴き、直観的に、「今、日本人は、日本人が古来より大切にしてきた自然と共感・共存する世界観や、まごころ、調和などの感性を学び、自覚し、そして自信をもって、この世界で起こっているさまざまな社会の問題の解決のために動く時なのでは?」と感じました。すばらしい気づきをいただいたと思っています。ただ、私自身が具体的にどう行動していけばいいかはわかりません。まずは、もっと日本の感性(本質)を学びたいと思います。

講義の最後に、松前さんが「自分が愛で満たされれば、宇宙と同期し、計らいが起こりやすくなる」「対立する人から学ぶことが大事」ということをおっしゃっていましたが、そこに、まず私自身が行動の一歩を踏み出すためのヒントがあるように思いました。まず自分を愛で満たして、対立する人から学ぶことを、心していきたいと思います。素晴らしい講義をありがとうございました。

 

感性論哲学入門講座

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平成の世は来年平成30年を最後に大きな転換期を迎えようとしています。このような時代は、感性から捉えるとまさに歓迎すべき時代の到来とも言えましょう。これからの混沌とした時代をリードしていくのは日本人だと感性論哲学は説きます。そのために日本人の覚醒こそが求められていると感じます。

日本の覚醒
日本人の覚醒

「そのためにこそ、大遷都はある!」

そう私は捉えています。

お忙しい中とは存じますが、ご縁ある皆さまと明日に向かって真剣な時間が持てればと願っています。

大遷都委員会
代表世話人 松前兼一

日時:2018年2月22日18:30〜
会場:株式会社アドバネクス本社会議室
〒114-0014 東京都北区田端6丁目1−1 田端アスカタワー 3F
http://www.advanex.co.jp/corp/company/map_headquarters.htm

会費:無料

懇親会:会議終了後、懇親会を予定しています。
一人でも多くの方のご参加を期待しております。

大遷都委員会について

世界文明はその中心を移すことで、発展してきました。日本文明もまた同様に都を移しながら進化発展し、その歴史を刻んできました。日本の都が東京に遷都されて400年余り。東京は名実共に世界の代表的近代都市として存在しています。

しかし今のまま日本の首都を東京に置き続けて、真の日本の進化成長、ひいては世界の発展は望めるのでしょうか。

日本人が世界に向けて新しい時代の価値感を高く大きく発信していく必要と必然を、多くの歴史学者・哲学者・宗教家・思想家が説いていますが、肝心の日本人の意識の覚醒が進んでいるとは言い難いものがあります。

「感性はその風土に規定する」と言われます。
東京という地場は、世界をリードする日本人の意識の覚醒を促すような力を残しているでしょうか。

答えは、「ノー」と言わざるを得ません。

今、時代はその原理を理性から感性にシフトし、感性の時代の到来を要請しています。今こそ日本人は古来から持つその繊細な感性を、世界に発信していかねばならない時代の要請を引き受けていく必然を持っていることを自覚せねばなりません。

先日、オバマ大統領が広島を訪問し、歴史的な一歩を印しました。その時の演説には人類が進むべき理想が語られていました。

オバマ大統領のみならず、広島という土地は、訪れる人を「平和とは」という哲学的命題に問いを発しさせる充分な力を持っています。

私達は、東京以外に本来日本人が持つ感性を取り戻す力を持つ土地があることを研究し、理想の旗印を上げなければならない時代を迎えています。

そのことを真剣に語り合い、意見を交換し合う場を創りたいと考え、この度、思風会組織の中に、「大遷都委員会」という勉強会を発足させることになりました。

 

第1回 2016年7月16日

思風先生から、冒頭歴史的な流れを基に何故遷都を行う必要があるのかを解説頂きました。

現在、歴史的には過渡期の時代に今あり、時代の変化の時期に、新しい時代には国の中心になる風土を変えていく。それは新しい時代を創る為の根本的、本質的な原理である。

【歴史的な背景から】
日本は古来、奈良時代から奈良県に日本の中心があり中世には京都、平安遷都があり日本の遷都が始まり武士の時代に鎌倉に移り、京都の室町に変化した。
京都という風土は平安時代に風土の基となる潜在能力を使い果たしてしまった。

その後戦国時代、江戸となり関東平野が中心となり日本の近代が始まる。明治になり江戸から東京になり今日に至る。

世界史を振り返っても時代時代に風土を移し替えながら今日に至るまで発展している。今の時代の時流が脱近代、つまり過渡期にある。

その過渡期を担うのが日本であり、過渡期の使命として何をやったらいいのか?という問いに対して大遷都が挙げられる。

どこに日本の都市を遷都するのか?
新しい都は広島しかない。日本が平和の指導者として日本こそこれからの世界の平和を目指すべき役割を担っている。
世界の平和を目指し、戦争の無い平和を目指すならば広島。ただ、広島だけではなく広島を中心として中国地方を大首都圏として捉える。

戦前から戦後にかけて和辻哲郎の風土という書物がある。
土地というものはどれ程大きなエネルギーを持って動植物を支配しているかの構図がかかれている。
風土が違えば文明、文化が違う。

だからこそ、日本を変えたい、活力をよみがえらせるには遷都が必要

大遷都こそ日本再生最後の切り札

 

第3次高度成長へ

日本が担う役割として経済を動かすには爆発的な雇用と仕事を創る必要がある。

その経済を動かす為には時代を動かさなければいけない。時代を動かすのは風土を動かす事。風土を動かす事は歴史的事実から見て言える事であり

大きな歴史的変換においては歴史無き政治も変革が求められている。

いかに公共事業を考えても大遷都に勝る公共事業は無い。従来の公共事業ではあまりにも規模が小さすぎる。数十兆単位ではなく百兆円を超える事業として国の繁栄を考える。国家予算をはるかに超える規模で行う。

遷都を通して新しい政治、経済、社会の在り方を創って、中国、韓国などアジアに示す見本となれる日本になる為の遷都であり、歴史的な価値がそこにある。

 

第3回東京での開催は、大遷都における歴史的な意義から解説頂きました。

文明が変わる時、過渡期の民族が果たす役割

民族が持っている役割というのがそれまでの時代の文明を質において完成し終わらせる
そして新しい時代の原理を提案する。
石の文化の頃から中世、近代にいたるまでを振り返ると

中世は真理は1つという時代において、ユダヤ教とキリスト教の進出がある中、ローマカトリックという大きな教団の中で封建社会が成立しルネッサンス人がそれまでの中世の文化を質において完成
(建築技術や芸術など)させて終わらせた。

その後人間の本質は理性という事で理性の時代(科学技術文明)が始まった。

※どの時代にも不安があり
力に対する不安:力でないものとして真理は1つという考えに
不合理不条理に対する不安:国民の不安に対してそこから論理的に考えるという
合理へのあこがれから理性へのあこがれが生まれ人間の本質は理性という考えが生まれ

その後

理性への恐れや不安に対して:感性の時代(日本人が科学技術文明において質の面で完成させて終わらせる)そして新しい時代の原理を提案するのが日本人しかできない事であり

科学技術文明が造り出した4つの負の遺産に対して答えを出せるのが日本人である。

大遷都こそ、日本人が過渡期を担う民族としての役割を果たしていかねばならない日本人の意識を、これほど覚醒させるものはないと考えます。

 

 

4つの負の遺産というのは
・自然破壊
・環境破壊
・人間性の破壊
・核の問題
の4つ

1つ核の問題を例に挙げると、放射能の問題について

それは20世紀が生んだ1個人(アインシュタイン)に帰するものであり、それは人類が創ったものに対して、否定し逃げてはいけない。

無くする、辞めるという事は科学技術の進化を否定する事につながる可能性もあり、進化を否定するのではなく受け止める事が大切。

それは常に、「神様は乗り越えられない試練は与えない」

従って人間の英知である原子力を何かの都合で否定し諦めるのではなく、受け止め乗り越える

例えば、放射能を無毒化する技術を生み出す、福島や広島に対して研究センターを創って研究する場所を創るなど人類の功績を否定せずに乗り越える英知を集めて日本が先導して乗り越えていく事こそが重要

感性論哲学の目的は「全人類の人間性の進化と平和」であり

我々は4つの負の遺産に対して実際にアプローチできる事は人間性の破壊に対してのアプローチと思われ、具体的に考えた場合に感性論哲学を広める事が人間性の破壊に対して我々が学び、伝え、広める事が出来るかもしれない。

 

最後に

日本人は時代と風土を考えるとチャンスの機会が来ている

天皇陛下の生前退位「大嘗祭」は平成31年(新しい元号が始まった年もしくは翌年)に大嘗祭が検討されています。
大嘗祭に欠かせない「麁服(あらたえ)」を調進するのが阿波忌部族です。

大嘗祭に用いる麁服

※天皇陛下が即位されるとき、その即位の儀式の大嘗祭には「あらたえ」という着物が用いられます。

天皇陛下が即位されて初めての新嘗祭を践祚大嘗祭と言い、その大嘗祭に貢進されるものの中で最も重要なものが、「麁服(あらたえ)」という大麻で作られた布です。

その「麁服(あらたえ)」を有史以来調進し続けてきたのが、阿波忌部族です。

阿波忌部族の詳細はこちら

阿波忌部族は圧倒的な知識、技術、知恵を持ち平和的な感性で日本中に農法、技術を広めていた。その平和的な感性や知識技術を伝えた1つに大麻の文化があり、大麻を日本中の神社(しめ縄)で使われる事により霊力のある文化が広まったと考えられています。

その阿波忌部族が持っていた感性や文化が広まるきっかけが2年後の大嘗祭の時期になるであろうと。その際に日本人が平和的文化、感性を取り戻す(覚醒する)きっかけが来るのではないかという事でした。

 

 

大遷都委員会

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大遷都委員会 大遷都委員会

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日本の遷都の歴史

 

1難波遷都

第33代推古天皇から第40代天武天皇までは, “一代一皇居時代” といって, 天皇が予め用意された都にいて政治を見るのではなくて, 一代ごとに皇居をかえるのが一般であった。 しかしこの間も皇居が奈良県高市明日香村あたり, ずなわち飛鳥川流域で, 天香久山から畝傍山にはさまれた狭い地域を, 第34代野明天皇は飛鳥岡本宮, 第35代皇極天皇は飛鳥板蓋宮, 第37代斉明天皇は後飛鳥岡本宮,第40代天武天皇は飛鳥浄御原宮というよ うに移動している。

しかしこの時代にも二度ばかり都が飛鳥の地を離れたことがある。 その第一回目は第36代孝徳天皇が大化元年 (645年) に都を現大阪市にあたる難波長柄豊碕宮に移した時であり, 第二回目は第38代天智天皇が天智6年(船7年) に近江の大津宮に移した時である。まず第一回目についていえば, この年の6月それまでわが国政を実質的に握っていた大豪族蘇我入鹿を, 中大兄王子 (後の天智天皇)
と中臣鎌足とが暗殺し, いわゆる “大化改新" と呼ぶ大改革にのりだした時期でぁる〝すなわちそれまでは氏姓制度に基づく豪族たちが, 土地と人民とを個別的に支配していたのを否定し, 公地公民制による中央集権・ 官僚支配体制の積藁を目指し, また京師〟 国 ・郡 ・ 里などの地方行政組織, 戸籍調ー度の導入と班田収技法, 租・農・翼といった統一的税制の確立がはかられた。 統一国家としてのわが国の出発を目指す大改革であった。難波遷都の理由は, 氏姓制度に基礎をおく豪族達の勢力がまだ強く残っている飛鳥地方を脱出して, この改革遂行のフリー ・ ハン ドを保っためであった〟 しかし都を他の撮所ではなく , あえて難波の地 (現大阪) を選んだことにっいては, いま一つ当時わが国が直面していた対外問題があった。
 
 

2藤原京時代

大化改新の立て役者中大兄皇子 (天智天 皇) と, 大海人皇子 (天武天皇) とは兄弟で あるが, 兄がどちらかといえば外向型政治家 であるのに対し, 弟は内政型政治家であった。 大海人皇子は第37代斉明天皇 (女帝で第35代 皇櫃天皇軍詐 ・ 中大兄皇子はその皇太子) が 百済救援のため九州に行幸している時も, 中 央にあって内政を担当, その声望は高かった。 百済救援が失敗, 中大兄皇子が都を大津に移 し即位して天智天皇となるとその皇太子とな るが, 天皇との仲は円滑にゆかず, やがて出 家して吉野に退去した。

やがて壬申の乱がお こ り, 近江の大友皇子軍に勝って飛鳥浄御原 で即位した〟 第40代天武天皇である。 天皇は 浄御原律令の制定, 国史の選餐, 旗姓を改め て八色の姓を定め, また欝位60階の制定な ど, もっぱら皇室を中心と した律令体制堅め に力を入れた。 この方針はやがて天武天皇の皇后で, 天皇 死亡のあと皇位をついだ持統天皇 (第4ー代) にひきつがれ, わが国最初の皇都である “藤 原京” の建設へと発展した。 “藤原京” は大 和三山 (耳成山・天香具山・畝傍山) の間に ひろがる平地に中国の王都を模して造られた 皇都で (中国北魏の洛陽を模したとの説もあ り, また唐の長安を模したとの説もあるあ それまでの “飛ノ鳥宮" が, その西北部に発展した形でっく られており, 現在の奈良県橿原 市と明日香村に位置している。 南北約3-ーキ ロメートル, 東西約2.ーキロメー トルで, そ こに南北ー2条, 東西には左京 - 右京に分れる が, その各々に四坊の条坊制がしかれていた と考えられている。

京城の北部に天皇の住居内裏と, 政務をと る官庁とが設けられていた。 これが大内裏で ある〟 ここに出仕ずる官人としての豪族たち は, 京中に集住される仕組で官庁の市港設け られていた。 つま り古代豪族たちはそれまで のよ うに自領に住んでいるのではなく , それ を捨てて新京に住み政庁に出仕して律令官人 になることを強制されたわけである。 いわば 藤原京の造営は, それまでの天皇と豪族の連 合政権であったわが国の政体を, 天皇とその 官人による政体に切りかえる作用を伴うの で, それに乗り, それを積極的に利用した農 原氏は栄え, それに乗り切れなかった大伴氏 は衰退の途をたどっているよ うに, 単なる宮 の位置および規模 ・ 形態の変化ではなく, 政 治体制, 社会体制の変革を秘めたものであっ た。

ここに都があったのは持統8年 (694年) から, 和銅3年 (7ー0年) までのー7年間, 天皇 で数えると第4ー代持統・第42代文武・第盤代 元明の三代であるが, ここで刑部親王 ・薦原 不比等などの手で大宝律令が編纂され, 律令 国家体制が, 法制的にも整えられた)

 
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

3平城京時代

薦原京において, 天皇制官人国家の体調ーは 急速に発展をとげ, やがて狭い藤原京では政 治を賄いきれなくなった。 そのため新たに造 営されたのが平城京である。

藤原京は奈良盆地の一番南端に営まれてい たが, 平城京は北端に営された。 それまでの 政治の中心地であった盆地南端部から北端部 に移ったことは, この地に残っている氏姓制的豪族体制をよ り完全にふり切って, 天皇制 官人体制を確立ずるという狙いもあったろう が, 基本的には狭すぎる藤原京を, よ り適し た盆地北端部に移しかえたと考えてよいだろ う。 その証拠として, さしあたり次の二っの ことがあげられる。 その一つは, 奈良盆地に は, 盆地東端山際にそって走る “上ッ道” と, それとほぼ並行して南北に走る “中ッ 道” と “下ッ道” との三本の道がある〟 藤原 京はその “中ツ道” と “下ッ道” にはさまれ る形で造られているが, 平城京は “下ッ道” を新京の朱雀大路として, その西側に右京を つく っている。 っま り東西は藤原京の約二倍 に設計されているわけである。

南北も藤原京 よ り長く , また左京の東側に外京も造られて いるので, 面積は約三倍, そこに住んでいた 人は昭和初期別万人との説がだされ, 以降そ れが定説になっているが実際はその半分く ら いであろうと推定されている。 また右京と左 京に各々東市と西市とが設けられ, 毎年前半 と後半とに分けて交互に市が闇かれ, 住民の 需要を満たすよ うになっていた。 その第二 は, 藤原京時代弟盤代文武天皇のもとで大宝- 律令を撰集した藤原不比等が平城京に移って さらにそれを撃正して養老律令を編集, ここ に以降の日本政治を規定ずる律令政治の基本 法が完成していることである。 この平城京は和銅3年から延暦 3年まで約74年間続く , わが国最初 の長期にわたる都であり, この間律令国家体 制が整う。

また律令官人としての藤原氏と, 鎮護国家仏教と しての仏教の拾頭で特徴づけ られている〝 まず薦原氏は鎌足の子不比等の 代になっているが, 彼は大宝律令, つづいて 養老律令と, 律令国家の基本法の編さんに抜 群の力を示し, 律令官人の ト ップの地位を占 め, さらにその娘宮子を第42代文武天皇に, さらに光明子を第45代聖武天皇に納れるなど して, 皇室の外戚と して地位を高めた。 また 仏教もわが国に渡来以来, 国家鎮護を旗印に勢力を伸ばして来たが, と くに聖武天皇は仏 教に対する信仰が厚く, 諸国に国分寺, 奈良 に纏国分寺として東大寺を建立するなど, 仏 教を律令国家体御ーの精神的支柱としたため, その繁栄は目を見はるものがあった。

しかし平城京時代も平和 ・ 繁栄の一途をた どったわけではなく , 若干の波乱もみられた。 まず天平元年 (729年) には, 藤原氏が光明子 を皇后に立てよ うとするのを, 皇后は皇族に 限るというそれまでの慣習を盾に, 左大臣の 長屋王が反対するだろうとして, 王に謀反の 疑いがあるとして自殺させた, 長屋王の事件 がおきている。 しかしせっかく築いた藤原氏 の地位も, 当主および一族のつぎつぎの病死 によって力が劣え, かわって橘諸兄が拾頭し てくると, 一族の劣勢を盛りかえそう と, 天 平ー2年 (740年) 藤原広嗣が九州太宰府で約 ー万の兵を集めて乱をおこした〟 これを藤原 広嗣の乱というが, 広嗣は橘諸兄政権のみな らず諸兄を登用した聖武天皇までも批判の対 象にしていたので, 天皇はそれを恐れてせっ かくの平城京を捨てて, 恭仁=紫香楽・難波 と転々と遷都をく りかえし, 五年後にゃっと 平城京に帰っている。 聖武天皇が光明子との間にできた娘孝謙天 皇 (第46代) に譲位すると, その籠愛ずる僧 道鏡が政権を握り, やがて彼は宇佐八幡宮の 神職とはかり, 神託にことよせて皇位をねら う事件がおこった。 これは和気清麻呂らに よって阻止されるが, 平城京においては段々 と僧侶・寺院による政治関与が激しくなり, 正常な政治が困難となったので, やがて山城 の長岡 ・平安京への遷都問題が登場してくる。

4長岡京時代

第50代垣武天皇は天応元年 (78ー年) 4月 に即位するが, この年は辛酉の年にあたり陰 陽道にいう革命の年でもあった” 天皇は平城 京初年の間に強大になり, 政治そのものまで左右するよ うになっていた寺院勢力をふりき り, 人心を~新して新しい政治を行い律令体 制を建て直そうと考えた。

そのためには都を 替えるのが一番良いと考え, これまで宮都の あった大和の地を捨てて, 平城京よ り遠く離 れた山城国乙訓郡長岡の地を選んだ。 これを 長岡京という

長岡京は長い間平安京ができ るまでの臨時の都と考えられていたが, 調査 が進むにしたがって, 条坊制に基づく計画さ れた都市で, 仮の都ではなく て本格的な都市 づく りが行われ, 中心部分の造営はほとんど 終っていたことが明らかになってきた。 まず 立地的な条件から見ると, 平城京が人口10~ 20万という人口を賄うには, 大賽の物資輸送 手段である水遣の便を欠いていたのに反し, 長岡京は桂川 ・ 鴨川 ・ 宇治川に接し, 膨大な 消費を賄う条件を備えていた。

工事は順調に 進んでいたが, 造営長官である藤原種継が反 対派に暗殺され, その容疑者として皇太子早 良親王が捕えられたが, 親王はそれを冤罪だ と して憤死する事件がおきた~ そのため事の 真相は判らずに終ったが, 遷都というのは, それほど利害関係が複雑にからむ問題だとい う ことを, はしなく もこの事件は露呈するこ ととなった〟 たまたまこのころ天皇の身辺に 度々不吉な事がおころが, それは早良親王の 怨霊だという説が流布し, ためにせっかくの 長岡京を捨てて, 桂川を渡った北東の位置を えらんで平安京を造ることになったといわれ る。

5平安京時代

長岡京から平安京に移る延暦ー3年 (794 年), 種武天皇は諸国の神々の弊帛を奉り , 遷都と撮東経路の成功を祈願している。 新し い都の造営と東北地方の経営とは, 種武天皇 の二大政策だったわけで, 後者のためには先 の征討副使と して東北経営にあたらせていた 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命している〟 また造都を推進する役所造宮城には, 約ー60 人もの大人員を配し, その長官 (造営大夫) には藤原小黒麻呂, りづいて和気清麻呂を配 している。 そしてその労働力 く造官役夫) と して諸国から公民を徴発するが, 役夫を出し た国に対しては租を免じるとともに, 出挙 (春に貸しだし, 秋の収穫後熟ー子をつけて返 さずという雑税の一種, 利率は約5割) の利 率を引きさげ, 役夫をださない国々とのパラ ンスをとった。

このよ うにして新都 (平安京) はできた が, また遷都反対派は根強く残っており, 大 同元年 (806年) 垣武天皇が死ぬと, 新帝 (平 城天皇) に, わが国では前天皇の忌明には, 新宮を建てるのが例になっている, と遷都を すずめる者があった。 これは容れられなかっ た。 しかし平城天皇の妃の生母藤原薬子は, 天皇が病弱のため退位すると, 勢力が失墜す るのを恐れ, 兄仲成らとはかって平城上皇を 平城京に移し, その重誰をはかって挙兵した が債圧されて自殺した。 これを薬子の乱とい う〟

このよ うに大和平城京から山城への遷都 は始めは波乱含みであったが, 以降建久2年 (ーー92年) 源頼朝が鎌倉幕府を開く までの約 400年間日本の政治をと りしきる “都” と なった。

なお, “都” を政治ではなくて天皇 の居所と解釈ずると, 明治2年 (ー869年) の 東京遷都ま で, 平安京 (京都) はー000年の都 であったということになる。 平安京は東西約4.6キロメ ー トル, 南北約 5ー3キロメー トルの, 南北に細長い長方形で, その大きさは平城京とほぼ同 じで, 京城の北 部中央に宮城を設け, その中央から南に走る朱雀大路によって右京と左京とに分けられ平 城京同様条坊制がしかれていたが, 右京は低 温地が多く , 去る者はあっても来る者はない 有様で, 都の重心は次第に左京に傾いてゆ き, さらに鴨川を束に渡って現在のよ うに なっていった。

人口は9世紀段階でー0~ー5万 人であったろうと考えられている。 平安京では仏教の影響を断った律令政治が 広く行われたが, 荘園制が進行するに伴い, 官人と しての藤原氏の勢力が段々と強ま り, やがて摂政 ・ 関白の地位を独占 し政治は藤原 氏に握られるようになる。

これを摂関政治と いう。 しかし=世紀末になると, 白河上皇が 政治の実権を院に移したことから藤原氏の力 は次第に劣え, いわゆる白河・鳥羽・後白河 上皇による院政政治が続くが, この間おこっ た保元の乱 (1156年), 平治の乱 (1159年) を 経て, 政治の実権は武家の棟梁である平清盛 に移ってゆく。 清盛の祖父は北面の武士と して白河上皇に っかえ, 僧兵の強訴を防ぎ, 九州の賊を討つ など軍功があり, 父忠盛は鳥羽法皇につか え, 瀬戸内 ・ 九州に載扈していた海賊討伐に 功があった。 清盛は実父は白河上皇との説も あるが, 保元 ・平治の乱で力を伸ばし, っい には従一位太政大臣の地位にまで登り, その ~門には公卿 (3位以上の責族) 16人, 段上 人 (5位以上の素族) 30人, 知行国は日本全 土の半分に近い加国あま り, 荘園は500ヵ所 に及んだといわれている】 また清盛は娘徳子 を高倉天皇の女御とし, その皇子は治承4年 (1180年) に即位して, 第8ー代安徳天皇と なった。 この頃清盛と法王および家衆との関係は次 第に悪化, 同年5月には平家に対ずる最初の 武力による反抗運動がおきた。 源頼政 ・ 以仁 王との宇治挙兵である。

清盛は突如安徳天皇 を奉じて福原に移った。 福原とは今の神戸で 平氏の別荘があったところである。 旧勢力を 断って新しい政治をしょ う という狙いだったろうが, 土地が狭少で造営が思うにまかせぬ うえ, 京都にいる公家や僧侶寺社の反発をう けて, その年のうちに再び京都にひきかえし た。 なおこの福原の舎殿は平家が都落ちをし て西に走る際火をかけて焼払ってしまった。 このよ うに平氏は武家として出発しなが ら, 無限に貴族化することでその勢力を伸ば していった。 しかしその事は逆に武家と して は弱体することで, やがて源頼朝を棟梁と ずる武家勢力におされて亡んでいった。武家政権でありながら, そのまま旧政権の 所在地である京都に優をすえ, 無限にそれに 近づく ことで結局は去勢されて亡んでいった 平家の姿をまのあたりに見た源頼朝は, 自分 の開いた幕府を都から遠く離れた鎌倉の地に おいた。

ここは関東武士発祥の地にあり, 旧 勢力に毒される恐れの最も少ない土地であっ た。 鎌倉は海にひらかれた港湾都市でもあり, ここから奥州や北九州, さらに中国まで船で 往来ずることが出来た。 そのうえ背後は東・ 北 ・ 西の三方を丘陵で囲まれており, それを こえて中に入り込む道は尾根を切り開いた “切通し” を通らればならぬよ う設計されて いた。 “切通し” は鎌倉七口といって, 西か ら極楽寺坂, 大仏坂, 化粧坂, 亀谷坂, 巨福 呂坂, 朝比奈坂, 名越坂の七つあり, それら をつなぐ尾根は, 人工的に切り落した崖と なっていて, その内部は一個の巨大な城塞と なっていた。 この中幕府の政庁と町屋があっ たのだが, 政庁は海岸から裏まった谷戸に設 けられ, 町屋は海に近い比較的広い地域にっ く られていた。 人口を測る史料は皆無に近い が, 建長4年 (ー252年) に幕府が行った民家 の酒壺の詞査からー 約ー万戸( らいの戸数が あったろう との推定がある。 この時代の一戸 の推定人口を示ず数字もないが, 江戸時代の 平均一戸約5人よ り多いとすると, 5~ー0万 の人口はあったろうと考えられる。 ともあれ 前代の平安京 ・平城京にく らべると著しく狭 い市城になるので, かなりの過密都市であっ たろうことは疑いない。

ここで御成敗式自 (貞永式目) が制定さ れ, 律令による政治とは異った武家の政治が 行われた。 未曽有の困難といわれた元冠は幸 に切りぬけることができた。 その愚鸞をめ ぐって武将たちの不構をまわき, 元弘3年(ー333年) 新田義貞軍に攻められ, 執権高時 以下自殺して鎌倉政権は亡んだ。 北条氏滅亡後政権の主導権をめぐって争い がおき, 一時新田義貞と組んだ後醍醐天皇が 政権を握ったかにみえたが (建武中興), や がて足利尊氏におされ南北朝分裂ののち, 実 権は尊氏の手に握られた。 延元元年 (ー336 年) 尊氏は京都に幕府を開き, 建武式目を定 め, 同3年北朝から征夷大将軍に任ぜられた。 これから坊代将軍足弔ー義昭が織田信長のため に京都から追放された天正ー5年 (ー573年) ま での約2仙年を室町時代と呼ぶ。 室町時代, または室町幕府という呼び名は, 3代将軍足 利義満が, その邸宅を京都北小路, 室町に営 んだことから出た言葉である。

武家による政権の所在地が, 鎌倉から京都 に移ったわけで, 武家政権の遷都であるが, では何故北条氏から足甲ー氏に政権が移った場 合, その政庁の所在地を鎌倉から京都へと大 きく移動させたのであろうか。 その答は簡単 で将軍家北条氏は亡びたとはいえ, 関東には まだ北条氏の勢力が強く残っており, 足利氏 による新しい政治のためには, それからのフ リー 〝ハンドを得るためには遠く離れ, 天皇 の居所であり, また日本の最大の 手工業 都市であった京都が適正だったからである。

6安土・桃山 ・江戸時代

守護地頭といった武家領主と寺社公家ら荘 園領主たちの連合政権といった性格をもった 室町政権は, その出発点から安定性に欠けて いたが, 応仁元年 (1467年) 将軍家の相続争 いに, 将軍家を支える有力守護大名家の相続 争いもからんで, 二派に分れた将軍家にこれ も二派に分れた守護大名たちが加わって争い を始めた。

東軍は細川勝元を中心に24ヶ国ー6 万, 西軍は山名持費を中心に20ヶ国9万の軍 兵が京都を舞台に来て しない争いをつづけた。 これを応仁の乱と呼んで約100年も続く がこの間に京都の町は戦火に焼かれてしまい, 将軍家の勢力は地におち, またそれを支えて いた大名達も薫に疲れはてていった〟 このよ うにこれまで日本を支配し続けていた上層社 会の力は衰え, 守護代以下の在地勢力が段々 と力を伸ばし, お互いに相手を征服してよ り 強大になるための武翼をく りかえすよ うにな る〝 これが下麺上の時代と呼ばれる戦国時代 である。

淘汰・統合は段々と進みー6世紀半ば ころには, 伊達・上杉・後北条・武田 ・今川 ・織田 ・毛利・長宗我部・大友・ 島津といっ た人達が一頭地を抜く有様になっていたが, そのなかでも織田信長が頭角をあらわしてき た。 彼は天正4年 (1576年) 近江の安土に, それまでにみられない巨大な近世城下町をつ く った く近世城下町はこの2年前に, 羽柴秀 吉が近江の長浜にっく ったのが最初だといわ れている)。 近世城下町とは, それまでの中 世城郭とちがって, 要害を主と した山城では なく, 領国の中央, 政治経済の中心地に設けられ, 天守をいただく城郭部分と, その周囲 をと りま く町屋部分とが一体の存在で, 大量 輸送を考えて舟遣のき く水につけているのが 一般であり, 長浜も安土も琵琶湖にっけてっ く られていた。

織田信長が安土を選んだ理由は, この土地 は東と西とをつな ぐ交通の要衝であるのみな らず, 日本海側と京都をつな ぐ物資輸送路で ある琵琶湖水上輸送路もおさえる位置にあっ たからである (当時までは日本海側の物資は 若狭湾に面した敦賀か小浜で陸上げされ, 陸 路で琵琶湖まで運ばれ, 湖を舟で都へと運ば れていた〟 西廻りの航路が開発され, 大阪の 地位が上るのは江戸時代に入った1650年ころ である)〟

安土はこのよ うに当時としては他に比類の ない交通の要衝であるうえ, 京都の旧勢力か らは離れ, しかも旧勢力を監視するには好個 を占めていた。 これが信長が天下統一 の拠点として安土をえらんだ理由である〟しかし信長の時代は長く続かず, それに 替った豊臣秀吉 (大阪 ・ 桃山を本拠とずる) の時代も短く て, 世は徳川氏の江戸時代に 移っていった。

` 徳川家康が江戸に入ったのは天正18年 (15 90年) 8月 1 日のことである。 従来の領地 (三河・遠江・信濃 ・ 甲斐・伊豆) に代って, 関東を与えられた からである。 この時これら5ヶ国を失うぐら いなら, いっそこの際秀吉に反して兵を挙げ よ うと騒ぎたてる家臣たちのなか, 家康は一 人満足げに笑っていた, という話がある。 江戸に入ったとき, もちろん太田道灌 の遺樓なるものが残っていて, 本丸・二九・ 三丸なるものがあったが, 石垣はなく土をか きあげた土手があり, 海岸に出入りずるとこ ろに数ヵ所木戸があり, 城内の建物も華ぶき の古屋で, 玄関には階と しては舟板が三枚な らべられている程度, しかも城下には茅葦き の家が100件ほどあった程度のものだった。

これに大改撃を加えて天下の城下町, 将軍の 御膝元と して体裁をととのえるのは, 裏長8 年 (1603年) からはじまる江戸市街地の建設 と, 同9年からはじまる江戸城の大改築であ る。 これらは, “天下普請" といって, ほと んど全国の大名たちを動員して行われ, 寛永10年 (1633年) ころ, ほぼ予定の仕事が終 わった。 しかし翌11年の “諸大名妻子在府 制” , 翌12年の “参勤交替制” 実施によ り江 戸は大膨張をはじめ, 再開発計画にと りか かった矢先, 明暦3年 (1657年) の江戸大火 (名層大火) で, 江戸城天守閣以下ほとんど の市城が焼失してしまった。 その後若干の計 画のもとに再建にと りかかるが計画を上回る 大発展をとげ, 幕府はじまって約100年経過 した元禄時代には, 人口ー00万といわれる世界有数の巨大都市になった。

このよ うに関東の江戸を政権の本拠と した 徳川家康と, その前の実権者豊臣秀吉とでは 政権構想が大きく ちがっていた。 豊臣秀吉に ついては, 尾張中村の小百姓の出でなくて, さる皇族の御落胤であるという , 責種落胤伝 説があるが, これは彼自身が流したものだと いわれている〟 これで判るよ うに彼は天下を 握ると, 天正13年 (1585年) 関白となり姓を 藤原と改め, 翌14年には律令官制では最高位 の太政大臣となり, 豊臣という姓を朝廷から 賜り, 同16年には京都に聚落第をつく って後 陽成天皇の行幸をあおぐなど, 彼は新しく生 まれた社会の新しい支配者でありながら, わ が国古来の伝統的権威である皇室に, 限りな く近づく ことで自己の権力を権威づけるとい う手法をとっている〟 これに対し秀吉のあとをうけた徳川家康は かなり越を異にしている。 彼は裏長8年 (16 03年) 征夷大将軍に任命されたことを政権掌 握の拠り処として, 江戸に幕府を開くが, 彼 はあく まで武家の棟梁として政権を握るとい う, 鎌倉政権, 室町政権の伝統に乗ろうとし ている。

家康は三河国松平郷を本拠とする在地小領 主の出であるが, 天下を取ると自己の家柄を 権威づけるために, 上州世良田郷に住む足利 氏の支流の親氏が, 某年某日落飾して諸国流 浪の旅に出, 松平郷で入婿したのが徳川氏の 祖先であるという話を組みあげている。 これ も一種の賽種流離譚であるが, 責董はあく ま で室町将軍家をつく った足利氏であって, 秀 吉のよ うに皇室ではない。 したがって皇室の 下にあって自分を無限にそれに近づけよ うと した秀吉と, 皇室をあく まで自己の政権の下 に置いて (たとえば 「禁中並武家諸法度」), これをコント ロールしょうとする家康の政治 姿勢に違いがでてく るのである】 それは自己 の政権政庁を天皇の居所と しての京都そのも のではないが' それに出来るだけ近い桃山 ・大阪にごいた秀吉と, 大きく切り離された江 戸におく という政都のえらびかたの違いにも 現われてくるのである。 それ以前の日本が, 上から下へと組みたて た社会とずれば, 江戸時代からは下から上へ と組みあげた社会である。 江戸時代は300諸 侯というが, 実際には約2冊ほどの諸侯 (大 名) がおり, その上に幕府が乗るという組み たてになっていた。 したがって江戸時代に “国” というのは, 今日の日本ではなくて約 270ほどの藩のことであった。 その幕は徳川 幕府に一定の制約をうけていたが, 経済的に は自立した存在で, その暮独自の財政と税制 をもっており, したがって独自の経済政策を 持っていた。

そのよ うな藩の政庁 (都) が城 下町と呼ばれる存在であった。 徳川氏といえ どもその中の一つの藩で, 約700万石という 他に抜きん出た領地を持っているほか, 幕府 という幕連合体を統・ コント ロールをする役 目をもつ存在であった。 したがって江戸は大 名と しての徳川氏と日本全体の統率者として の両機龍を兼ねた城下町であった。 城下町は一定のルールでっく られた人工的 都市であった。

まず城下町は海・河川 ・運河・湖 などの違いはあるが, 水についているのが原 則であった。 これは領内人口の約一割を豪め た巨大消費都市の消費物資と, 領内の物産を移出し, また移入するための運輸の便を考え てのことであった。 つぎに城下町の中心には 城郭部分があり, 領主の居所・政庁および, 場合によっては藩の最上級家臣の居所もここ にぁった。 っぎは武家地で, ここに家臣団が ほぼ階層別, 職種別に居住していた。 その外 側は川や構 ・ 堀などで区切られている事が多 いが, 領内から集められた商職人が集往して いた。 江戸時代では “兵農分離" ということ がよ く云われるが, 農商の分離も同時に行わ れ, 兵と商 (工を含む) が農から分離して城 下町に住むのが一般であった。 またこの町地 (町人地ともいう) には他領から入り, 他領 に抜ける “天下の公道” が通っているのが一 般であった〟 町地の外は寺社地で, ここは城 下町防衛も考慮した配慮で, 一朝事ある時は ここが城下町防衛の外郭陣地となる筈であっ たが, 江戸時代は平和が続いたので, 現実に は市民のレク リエーショ ンの場としての役割 をした。

幕末期の遷都

幕末期、京都には多くの武士が集い政治上の重要拠点となりました。しかし、京都ではなく大坂を首都に定めようとしたのは、新しい政治体制を組織するために従来の場所から離れる必要があったからです。ところが、この大坂遷都論に触発される形で、驚くことに幕臣の前島密らが江戸遷都論を大久保に上申したことが、江戸が首都となるきっかけになりました。彼らが江戸を推薦した理由として、蝦夷地の開拓を視野に入れていることや、その当時の江戸が人口や土木・建築技術において世界の首都と見劣りしないものであったことなどを挙げています。大久保らは今後の徳川家の処分に加えて、明治政府内部から江戸遷都論が少なからず出たこともあって、江戸を首都とする方向に傾いていったようです。遷都自体については、明治2(1869)年に皇城とした江戸城に天皇が入城した後も明確な声明はなく、なしくずし的に江戸(1868年 7 月17日より東京に名称変更)を首都にする形となりました。
 遷都自体は奈良時代、平安時代にも行われていたことで、前例の無い事例ではありません。しかも、明治政府は徳川幕府を倒して勝者となった以上、躇う必要はなかったとも考えられます。それでも遷都という表現を避け続けてきた理由は、一千年以上の伝統を持つ京都に対して憚はばかりを感じていたからだと。このように変革は、その内容が斬新で、旧来の制度や慣習などを大きく変えてしまうものほど実行は困難になります。後の四民平等や徴兵制度に見られる武士階級の撤廃の場合、武士の強い反発を招き、最後は西南の役に見られる戦争に発展しました。
 現代も、政治家によって多くの社会・政治改革案が提唱されていますが、反対勢力の抵抗などで成立を見ずに頓挫したものもあります。また、実施に持ち込めても、それが理想とは違い、地域や国民の利害にそぐわぬ結果に終わった改
革も存在します。したがって、いつの時代でも改革は現状を大きく変えてしまうことが前提であり、立案前に広範な視点からの検討を積み重ねることが求められます。

〜こころの曇りから解放され青空を感じるステップアップ講座〜

「ここまでの道程は決して平坦なものではありませんでした。数え切れない体験経験をたっぷり味わったお陰で、やっとしあわせの女神に愛される日々になれたように感じます。周りの方々から背中を押されてスタートしたしあわせ講座。修了者の柔らかでしなやかな笑顔ほど私をしあわせにするものはありませんでした。なので、第6期も募集する勇気が湧いてきました。ご縁のある方の背中を、今度は私がそっと押す番です。」

第7期日程
第1講座 6/6(水)
第2講座 6/20(水)
第3講座 7/4(水)
第4講座 7/18(水)
第5講座 8/1(水)
第6講座 8/22(水)
第7講座 9/5(水)
第8講座 9/19(水)
※全日程18時30分から21時になります。
全8講座(受講料7,000円、毎回の講座開催時の支払いとなります。講座開催後に懇親会があります。懇親会費は、別途1,000円を頂いております。)

現在卒業された方々の多くがこの講座を通じて
自分のありたい姿、なりたい自分への気づきを仲間と共に学び発見し、仕事、家庭環境、私生活など様々な場所において状況が改善された、自分の本当にありたい姿が見えて新たな行動に結びついた 等々たくさんの幸せなメッセージをこちらの卒業生の感想文で紹介しております。

 

第12期では池川先生から3講座と 1講座 女性の妊娠や胎内記憶の意味 2講座 胎内記憶そのものについて 3講座 魂、輪廻転生についてどこにきてどこに帰っていくか + 3名の女神達とのコラボセミナーになります。 第1講座では女性の妊娠や胎内記憶の意味について 池川先生から「いいお産とはどの様なお産なのか?」 それは、教育も含めてお産を考えてみることがいいお産につながるのではないかとヒントを頂きました。 いい教育というのは 30歳になったときに、自立して幸せに生きていること。自分で決めた目標に自分で向かっていける子になっているのであればそれはすべていい教育 というのを池川先生は伊藤善重先生からの言葉を基にいい教育といいお産を結びつけることが出来たとのことです。 多くの方は出産時の形にこだわりその後の教育、教育した後の子供の姿まで考えていないケースが多く 長い目で見て子供の出産は形にこだわらなくてもその後自立している子になるのであれば 自然出産や母乳育児など必ずしも形にこだわらなくてもいい。 むしろ自分で決めずにこれじゃないとダメという周りの意見に惑わされすぎるのはよくない。  

妊娠において気をつけるべき「ストレス」について

ストレスには4つあり 1、科学的なウイルス、ばい菌、感染症 2、機械的な電磁波、放射能 3、ケミカルな薬剤 4つ目が精神的なもの
4つ目の精神的なストレスが活性酸素を作ってしまい、活性酸素は遺伝子に影響する。 例えて言うなら レントゲンを取るのを例に放射能の影響で悪影響を及ぼすかもしれないがそれは一瞬の出来事。 ストレスの場合は24時間常に悪影響が続いている。 影響度は放射能と比べて弱いかもしれないけれども活性酸素を作り続けていることは遺伝子に影響してくる。 具体的に ネズミの実験でネズミを縛った状態で24時間光を当て続けるとストレスが相当溜まってしまうとのことで 昔、妊婦さんに同じ様な実験を行ったケースがある様でその際出産した子はおかまっぽくなる男の子だった。 さらにしょっちゅう動いて、攻撃的な子でもあった。 そのストレスを感じて産まれた子は虐待を受けた子と類似していて前頭前野が機能しなくなり、機能しないと、我慢できない、相手の気持ちがわからない、常に自分が非難されている気持ちを持った子になる可能性が高い。 解決するには親の問題よりも御祖母さんが妊娠中の時にお母さんがストレスを感じていたケースが多く 親がどうするではなく、その子で悪循環になっていた状況をストップすること。
最後に、 1期の卒業生であり、11期から講師の宮崎智美さん(トミーさん)から宮崎さんがまだ池川先生と出会う前に体験した子供が来るのを感じた時の子供の意思の大きさをお話し頂きました。 自分にとってのいいお産も赤ちゃんが選ぶいいお産両方とも感じながら、赤ちゃんが選んだことを受け入れようという覚悟を持って出産した時のお話を頂きました。 もしも病気や障害を持っていたとしても、それを選んで産まれてきてくれるんだと それは自分にとって必要な体験を赤ちゃんがさせてくれている。 そこまで信頼して不安が無いお産、リラックスした状態でのお産をすることが出来た。

胎内記憶教育協会基礎講座3,4講座では

第3講座出産時の記憶、いいお産について、母性と愛のエネルギー、実際のお産の事例

第4講座では赤ちゃんとの会話、自分自身の胎内記憶

についてを学びます。

 

いいお産とはどういうお産なのか?

池川先生からは胎内記憶から導かれるお産についてはどのような出産でも(たとえ流産、死産といえども)「全てはいい出産である」ということになります。

出産の時だけに焦点を当てていい悪いではなくて
産まれた後のビジョンが大切!
将来どういう子になるかのビジョンがない方が多く、自分が何かになるという目的をもって親を選んできているが親の方が産まれる事に焦点を当てすぎていて
例えば、帝王切開はダメ、母乳育児でないとダメなど
親が決めつけているケースがよく見られるので
ゴールを30年後においてどういう子になるか?
その為には最初のお産の時がいい悪いではなくて、その後の教育も含めて長期の視点で考えることが大切。

実際のお産の事例(子供が選んで来てくれるにはお母さんからのオーダーも)

土橋さんのお子さん3人の例を基に
お母さんからもオーダーをしてみることによって望んで待っている子が来やすくなるかもしれない。そのお母さん側からオーダーをしてどういう子どもが来てくれたのかの事例をお話し頂きました。

赤ちゃんがお腹に来る前から会話を始める

お腹の中にいる時から赤ちゃんと一緒の感覚を持つ。(体に記憶させてしまう)

できれば1日1分でいいので、お母さんは赤ちゃんに気持ちを向けて赤ちゃんと一緒になる時間を
例えば歌を歌ったり、同じ香りを嗅いでみる、お腹を撫でるなどお母さんが気持ちのいい瞬間を共に赤ちゃんと味わうこと。

それが意識の中の潜在意識で赤ちゃんが思い出すためのスイッチと思って。

 

最後に常任理事の松前さんから教会の理念についてお話頂きました。

  • わたしたちは胎内記憶によって内なる平和に気づくことが、家庭に平和、ひいては世界の平和につながると信じ、世界中に胎内記憶を広めます。

  • わたしたちは胎内記憶教育を通じて新しい子育て観を提唱し、ママも赤ちゃんも共にしあわせを感じるお産や子育ての在り方を提案します。

  • わたしたちは胎内記憶教育を広める発信者を養成し、共生みの精神で、しあわせな子育てを発信しつづけます。

  • わたしたちは胎内記憶がもつ可能性、本質性、普遍性を問い続けながら、ママたちのしあわせを模索しつづけます。

  • わたしたちは、以上の理念の実現ために、時に悩み、時に葛藤しながらも、真実の声に耳を傾け一歩一歩ていねいに歩いていきます。

 

理念の中にはキーワードが4つあります。
それは内なる平和、しあわせ、共生み、模索する

この理念の基に賛同頂ける方々が今後講師としてご活躍頂ける場を広げていきたいと思います。

 

  

2月13日から愛の子育て塾第12期スタートします。

毎回好評の愛の子育て塾

胎内記憶研究の第一人者である池川明先生による『愛の子育て塾』を開催しています。
小人数制を取り、身近に池川明先生を感じながら、講義の途中でも個人的な質問OKな本来の塾の形式を取っています。若いママから40代での初産を控えるママ、そしてこれからの幸せなお産をと願う独身女性に大変評判を得ています。

池川先生からのメッセージ

現在社会ではストレスを多く抱え、生きづらいと考える人が増えています。

自尊感情の欠如、生きていく力が出ない、などこれらの原因のかなりの部分は妊娠出産時期の母親と胎児~子どもとの関係性で規定されてしまいます。古くからそのようなことは指摘されていますが、お産を扱う産科医療の現場では全く顧みられることがありません。ならば出産する人、その周囲の人がそのような知識を持つことが重要であると考えます。しかし知識だけでは行動変容が起きにくいことが大きな問題です。

ところが『胎内記憶』を知ることで妊婦さんの行動変容は大きく変わり、妊娠・出産に大きな変化が起き、その結果として育児が楽しくなるなどの事例は増えています。今回は『胎内記憶』から考えられる妊娠・出産・育児を通して毎回、その世界観をお知らせするセミナーにしたいと思います。

池川明先生愛の子育て塾

池川明先生愛の子育て塾7期第3講座

下記に前回の様子をご紹介

 

第4講座では、魂についての内容を基に下記の内容でお話頂きました。

  • 肉体と魂の記憶
  • 輪廻と転生について
  • ゲスト参加、松田大夢さんの紹介

 

肉体と魂の記憶

 

「あの世」の本当のしくみ 人はどこからやってきて、どこに還るのか

池川先生、サアラさんの新書「「あの世」の本当のしくみ 人はどこからやってきて、どこに還るのか?」から

肉体と魂をどう考えるか?
魂とは何か?

サアラさん説を基に解説頂きました。
畑を作って作物をコントロールするのはよくない。畑で自然に出来たものを食べている。それが地球に住んでいる女性も同じ性質を持っているとの事で

本来、不妊症は無い。本来の姿や状況ではなくしているから不妊症が生じている。
そして、子供たちの胎内記憶がお母さんを救うから地球を救うに変わってきたのは地球が危ないというサインを出しているとの事で

地球が危ない=女性が危ない
女性が危ないというのは女性性を失ってきている。
女性性:産みはぐくむ力、それが女性から少なくなってきていて、特に歓喜(喜び)が少なくなってきている事が子供たちが胎内記憶を語る際のメッセージではないかとの事

輪廻と転生について

輪廻転生で1つではなく輪廻と転生は分けて考える。

輪廻は何度も何度も繰り返す事で転生は雲の上に行ってしまう事
※その雲の上に行くか否かの境界が幽界と言われておりその幽界は地球だけに存在している

輪廻は自分で経験した事を自分で思い出す。
転生は転生した人の記憶をシェアする。
そこに含まれている記憶は実は他人の記憶もあるとの事です。

そして魂は薄皮饅頭の薄い皮の様なものであり、魂が真ん中にあって、その周りを覆っているのが情報(記憶)
産まれる前に持っている情報が
A,B,Cと仮定するとこの世に生まれていろんな経験する事でA,B,CがlargeA,largeB,largeCと情報が濃くなり、その情報を持って空に帰る。

つまり、生きて産まれて亡くなるまでに行うのは「情報の書き換え」

書き換える為に生まれてきたのだから
何がいい悪いではなく全ての人の人生がOK。
世間一般で悪いと言われている事でも、その経験を行う事で情報を書き換える事が出来るから

ゲスト参加、松田大夢さんの紹介

バジャウ族の生き方に憧れ、フィリピンのセブ島にて生活している松田大夢さん
現在SNSで発信していく中において、バジャウ族のイメージを少しでも良くしようという思いで多くの方にまず知ってもらう為の情報発信を展開中。
不安があるときもあるが、それを乗り越えて挑戦することが自分が成長出来ることではないかという事で精力的に活動されていらっしゃいます。
講師のリラさんからの紹介で、松田さんを通してお伝えしたい事は「子供が決断する事に対して、今までの当たり前と思っていた事を乗り越える事にどこまで許容出来るか、待って信じる事が出来るか、認めてあげる事がこれからの親に求められている事ではないか。」
その今までの当たり前に疑問を持ち、自分自身で決めてチャレンジする新しい価値観を持った若者の生き方をされている松田さんを紹介頂きました。

最後に主催者の松前さんの誕生日祝いを開催!

11期から講師の女神3名へのお花プレゼントもあり感動的なフィナーレを迎える事が出来ました。

 


胎内記憶教育協会基礎講座では
胎内記憶研究そのものについてのみを学んで頂くのではなく、人間の基礎を築くといわれる、母親の胎内にいのちが宿す前からいのちの始まりまでの期間を4つに分け、それぞれの期間に起きている事柄やその意味などを、子ども達が語る胎内記憶に基づいた赤ちゃんの視点から伝えています。

 

第1回の講座では冒頭代表理事の池川先生、副代表理事の土橋優子さんから協会設立にあたっての想いをお話頂きました。
池川先生からは1999年頃「生きがいの創造」の書籍に出会った時の胎内記憶に関わるきっかけになったお話

 

2000年から広め始めようと思って現在の活動に至る中
当時は珍しい話として語られていたが、調べてみると世界観(なぜ産まれてきたのか?)まで、胎内記憶を語るだけではなく、実際に広めてそれを子どもの育児に活かしていい方向に向かっていけるのではないかという事で、これから3年がかりで海外にも広めていきたいという中、1人ではなく想いのある参加者の皆さんと共に学び広める事で世界に向けて発信していきたいという事でお話頂きました。

土橋優子さんから
現在子ども達の幼児教室を展開している中で日々胎内記憶を持っている子ども達とのかかわりの中その中で得た情報を子ども達の事例や子ども達の理解を実体験を通じてお伝えしていきたい。とお話頂きました。

 

講座の内容について

講座の中では第1章から4章での構成になっております。
【第1章】では大きく分けて2つのことを学びます。ひとつは「いのち」とは何かということ。そして2つ目は、男性と女性の身体と心の仕組み、女性の月経やホルモンなどについて学んでいきます。

今回は第1章の「いのち」をテーマにした内容から土橋さんの体験談を基に解説頂いた時の様子をお伝えします。

「ユウキ君」という子どもさんの事例

元々は気弱な子でいじけるタイプの子だったが名前の通り「ユウキ=勇気」君を見る様にして、影で頑張る努力家だったので、影ではなく表で堂々としなさいとアドバイスし普段のユウキ君より名前に込められた「勇気」君を見る様にし、5年後の今は周りが憧れるスポーツ、音楽万能なお兄さんになった。

自分の名前の意味、生き方(使命)など自分の名前の由来について感じる事が出来れば子どもの成長にいい影響が見られた事例をお話いただきました。

 

次に男性と女性の身体と心の仕組み、女性の月経やホルモンなどについて池川先生から解説頂きました。

「子宮に挨拶する事の大切さ」

妊娠をしたいと思う時に今まで頑張っていた子宮に挨拶する事が何故大切なのか?

身体が冷えると妊娠しづらいという事があります。卵巣が冷えていると排卵しにくい(妊娠しづらい)

子宮と卵巣には動脈があり血液の循環がある中において酸素を運ぶ役割だけではなく体温が影響してくる。
その体温を上げる為に血流を増やせ!と言うだけではなく
今まで頑張ってくれていた子宮に挨拶する事でそこに焦点が当てられて体温の上昇に影響する。(意識する事で血流が増える)

お母さんのストレスや気持ちが妊娠に影響しているからこそ、心の状態をいい状態にしておく事は妊娠にもいい影響を及ぼすのではないかとの事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京思風塾の年間テーマは『覚醒の時代~目覚めた命を生きる~』 平成30年の第一回のテーマは『世界文明の中心は日本の真上にある』

「覚醒は時代と共に変化し現在は第3の覚醒の時代」

歴史的な背景を考慮すると、宗教の時代において「人間は神ではない、不完全な存在」 不完全性の自覚に目覚め、不完全性に覚醒し人間の格というのを意識して生きる時代に入った。 これは第1の覚醒の時と言える。 第2の覚醒は近代 「人間の本質は理性」 理性を限りなく発展、成長させた時代 その生き方として近代の科学技術文明が創り出されて発展してきた。理性能力を成長発展させる事に目覚め、理性に覚醒した時代 今その積み重ねの結果 人類は宇宙に目覚め、命に目覚める第3の覚醒の時代に入った。 第3の過渡期とは 過渡期こそ最も文化が栄える時期で完成度の高い文化が成り立っている ギリシャ人は古代文化を担っていた。 古代文化が量的に拡大したのはメソポタミア文明、 古代の石の文化をギリシャ人は発展させ、完成度を高めた上 中世を拓いたという歴史がある。 そして、ルネッサンスは宗教文化 ルネッサンスを通じて中世~近代へと変化しており 近代を終わらせて未来を拓く それが日本人としての役割ではないか 過去へのしがらみを断ち切って新しい時代へ突入する過渡期 これまで我々は民主主義を信じていたが 民主主義が制度破綻に近づいてきている。 民主主義を終わらせること、それが近代を終わらせる事 民主主義を何故終わらせる必要があるかというと、民主主義は権利の主張から始まっている歴史があり 義務を言うより権利を主張する そういう時代を創り出したのが民主主義の出発点 義務を果たす努力を極端に避けて権利を主張している 義務を逆手にとって、義務を持って人を攻めてしまっているのが民主主義の実態 責め合う社会であってはいけない。 不完全な人間が安心して安らかに生きる社会は攻めあい権利を主張するのではなく 許しあって生きる愛に基づく新しい社会のあり方を考えていくべき   中世の段階で目覚めた自覚は「人間は不完全である」という事 人間短所が無ければ人間ではない。長所だけなら神様である。 長所短所共に存在しているもので、無くすことは出来ない。 人間も宇宙の一部分、宇宙とはマイナスとプラスのエネルギーが半々ある事。 それが宇宙の秩序を形成しており、対存在という言い方が出来る。 プラスにマイナス 陰には陽 光に影 表に裏 真に偽 善には悪 男には女 動物に植物 あらゆるものが相互補完的な関係でバランスが成り立っている。 だから人間には長所短所も自分で創ったものではなく誰でも半分ずつあるもの