あの角を曲がれなかったんだ

 

◇ 紅テント、状況劇場、花園神社

 昭和43年の4月から新宿西口にあった大学の夜間部に通い始めた。その当時の新宿西口広場の夕刻は改札口を出て真っすぐに歩けないほど人で一杯だった。ヘルメットを被った学生たちの集会があり、ビラを配る集団があり、学生がサラリーマン相手に議論しているひとかたまりがあり、柱を背にして座ってフォークギターを鳴らして歌うグループがあり、<買ってください>とマジックペンで書いた段ボール紙を置いて、その前に手作りの詩集を並べている女の子を見かけたこともあった。そこにいる若者のたちの全員が全員長髪だった。演説する声、議論する声、そしてギターの音、合唱する声、デュオで歌う声、ひとりで歌う声、音と人の熱気が充満した、騒然雑然としていたが活気に満ち溢れた人込みの中を抜けて学校に通っていた。

 新宿西口広場から地下通路路を進んで、行き止まりから地上に上がる階段を出たところに学校があった。学校の四階の製図室から西口の淀橋浄水場の跡地が一望できた。夜なので見渡す限り真っ暗な闇が広がっていて、建造物といえば東京ガスの球体のガスタンクだけで他に目に付くものはなかった。まるで海のようにさえ見える闇の向こうに新宿十二社のネオンの明かりが海の上に浮かぶ漁船のように見えた。新宿プラザホテルの建築工事がまもなく始まった。やがてここに丹下健三が設計した東京都庁の高層ビルが建ち、ガスタンクの後に東京ガスの高層ビルが建ち、浄水場が跡形もなくなることなど知ってもいなかった。

 

 その頃、矢崎泰久が編集長の「話の特集」を読んでいたので、花園神社の境内を借りて張った紅テントを芝居小屋とした唐十郎が率いる状況劇場のことは知っていた。「腰巻お仙」のポスターを見た時の衝撃は今でも忘れられないもののひとつだ。ポスターといえば横尾忠則の「毛皮のマリー」も忘れられない。花園神社とは目と鼻の先、明治通りの伊勢丹の向かいにアートシアター新宿文化というATGの映画を専門に上映する映画館があって、その地下にアンダーグランド蠍座という小さな劇場で寺山修司が率いる劇団天井桟敷が「毛皮のマリー」を興行していた。伊勢丹から花園神社までのわずか二百メートルの間に日本のアンダーグランドのメッカがあった。まさにそういう時代の新宿の風景を見てきた。

 

 授業が休講になり、急にぽっかりと時間が空いたので意を決して花園神社に向かったのは夏休みの終わった9月の頃だったと覚えている。東口の改札を抜け靖国通りに出る駅前、今のスタジオアルタの前の換気塔の辺りには当時フーテンと呼ばれていた一種異様な若者たちの集団がたむろする場所だった。永島慎二が描く「フーテン」そのものたちがそこにいた。男ばかりではなくなかには女の子もいたように思う。私と同世代の若者たちが無気力に座ったり寝転んでいるだけで、西口広場の暑苦しいほどの熱狂の対極のような空間だった。今ほどネオンの明るさなどなかったので目に付かなかったが、シンナーの匂いを嗅いだような気がして足早に通り過ぎた。立ち止まって彼らを眺めるには憚られるような場所だった。

 靖国通りを明治通りに向かって歩き、交差点の北の一角に花園神社があった。神社に近づくにつれて何か空気感が変わったようで、花園神社を目指す特別な雰囲気を持った人たちと一緒に歩く形になった。交差点まで十数メートルのところで何の予兆もなく、突然足が止まってしまった。それ以上進めなくなってしまったのだ。曲がったところにあるのは想像もできないような異世界、二十歳になったばかり、就職したばかりの常識的な考え方しかできない自分が、決して足を踏み入れてはいけない世界が口を開けて待ち構えているという恐怖感のようなものが足を止めさせた。明日はまた早く起きて現場に出なくてはならない、自分には仕事があると臆病な言い訳が頭に浮かんだ。ここを曲がったらもう戻ってくることができなくなるかもしれない、これ以上行くな、ここで引き返せと自分に言い聞かせる声に納得してしまった。神社の鳥居をくぐり境内に入る好奇心よりも、臆病にも怖くなってその手前の、あの角を曲がれなかったのだ。

 

◇ 何とも残念に思った

 唐十郎が亡くなったとニュースで知らされて思い出すことがあった。2000年、ミレニアム騒ぎの頃だったので覚えているが、ある有名女優の息子が覚せい剤取締法違反で二度目の逮捕をされたときのことだ。テレビのニュース・バラェティ番組で、女優である母親から息子の身元引受人を依頼されたことを集まった記者のインタビューに答える映像があって、そのなかで、まるで舞台役者が大向こうに向かって見得を切るかのようにたっぷりの間を取り、「大丈夫かどうか、一応試験のようなものをしてから」と答えていた。これを観て、本当に驚いて唐十郎という人物に失望したことをよく覚えている。

 「話の特集」のインタビューで、詐欺師スリかっぱらい、女衒、ヤク中毒、麻薬の密売人、男娼何者であっても自分は受け入れる。状況劇場は「梁山泊」なのだと30年も前に言った言葉を覚えていて、その落差に驚いたのだ。30年前は、女衒だろうがヤク中だろうが麻薬の密売人だろうが、何者でも受け入れると言ったのに、今は「まず試験」をすると言う。アングラを出自としそれを誇りにしてきた者が、世間のモラルで人を測ろうとするその姿勢、失うものが何もない頃は天下に無敵、何者でも受け入れる気概に溢れていたが、歳を重ねて得たものを数えてしまうと何に対しても臆病になるというその典型、紅テントの唐十郎もただの年寄りになってしまったのかと、そしてつくづく歳はとりたくないものだと思ったものだった。

 調べると「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞したのは1981年のことだった。芝居と同様に外連味たっぷりの表現で、なぜこの作品が芥川賞に選ばれたのかさっぱり分からなかった。内容よりアングラ劇団の劇作家、演出家が、世間の耳目を集めた猟奇事件を小説に仕立てたという話題性で売ろうという、出版社の経営戦略からの受賞以外の何ものでもなかった。何より、芥川賞選考委員の見識が疑われるだろうと思ったものだった。

 

 唐十郎の訃報を知って昭和43年の秋のことを思い出した。

 追悼の言葉は思い浮かばない。代わりに、あの角を曲がれなかったんだという思い出を、一輪の献花にしたい。