「英語を教える」は「英語」を「教える」(生徒の英語の習得レベルを上げる)。それ以上でもそれ以下でもないと思う。

 

生徒のレベル、生徒の教育環境の中でいかに習得対象言語の習得レベルをより上げてあげられるか、、、それだけです。僕はそれを米国の日本語教育から学びました。

 

英語教育関連で、グローバル人材とかいろいろ言われますが、そうなるかどうかは、生徒自身が必要性に応じて自分で決めることではないでしょうか。

 

グローバル人材養成プログラムなるものを作って時間とエネルギーを使えば、その分英語の習得レベルを上げる時間とエネルギーは減りますので、やるべきことが出来なくなりますね。他の教科の時間を潰してやる場合は、他の教科にしわ寄せが来ますし。

 

生徒が将来グローバルに活動しようとした時、現状のアジアで最低レベルと言われている英語力ではやはりまずくて、読み英語中心で勉強して、オーラル英語がルー大柴英語の方向にかなり固定されてしまったら、その負の遺産の克服が非常に大変です。そういった生徒の将来の可能性の邪魔になるようなことはしない。

 

一方、生徒がグローバルに活動する必要がなくて英語から遠ざかる、、、。これもその生徒の選択です。後で英語の必要性を感じて英語に戻ってきたとき、英語のベースがキチンと出来ていて、負の遺産をあまり抱え込んでいなければ戻りやすい。

 

言葉は音声言語がプライマリー。生徒の脳が白紙に近いので、中学の英語学習経験は圧倒的に重要ですね。

 

一方で英語は中学一年生には難し過ぎる面も少なからずあります。

 

このバランスが難しんでしょうね。このバランスをとったものを作りたい。

 

ジョーデンメソッドではグラマーベースです。グラマーを紹介、理解、練習、暗記、、、で、クラスでよりコミュニカティブに使う、という繰り返しです。

 

と言うことは、紹介されていないグラマーの項目は一切使えません(スピーキング、リスニング、リーディング、ライティングの全てです)。生徒たちは当然分からないので。使ってしまったら、そのネイティブの先生が「不勉強」ということ。先生があるグラマー項目を使って、その使用がなぜ悪いのか分からなければ、プログラムとして成り立たなくなります。

 

逆に言えば、紹介されているグラマーの項目は、生徒はわかって当然。分からなければ復習という手順。紹介されたアイテムもチャレンジングなものだらけなので、繰り返しの理解・練習、そして復習をして徐々にそして確実に積み上げます。

 

例えば、英検5級レベルを目指す生徒たちのグラマーの項目は以下になります。

名詞、代名詞
be動詞、一般動詞
現在形、進行形
前置詞、疑問詞
疑問文、否定文、命令文、canなど

 

それ以外を使っては絶対にいけない。しかも、ネイティブの先生から出て来る英語は正しくかつ自然である必要があります。

 

さらに、この5級レベルのクラスではどこまでカバーしたかで、これらのグラマーアイテムでも使えるものと使えないものがあります。そして日ごとにそれは変化します。それらも出来るだけシッカリ押さえる必要があります。すでに紹介されたアイテムは定着するまでシッカリ使い続ける、、、。

 

スピーキングのこのベースに、読み書きである文字言語を乗っける。ホイホイ乗っかります。言葉はそういう性質があるので。文法+読みベースはdecodingと呼びます。つまり、解読、暗号解き、ですね。中学生は前者の方が間違いなく好きです。

校長会がなぜ問題かと言うと、いつも反対のための反対で世界で最低レベルと言われ続けている生徒たちの英語力を具体的にどうするのか全く示さないことだと思います。小学校から高3まで全4スキルが延々とCEFRで最低のA1が続いてしまっています。

 

学校の英語教育は4スキルの習得型であることは『学習指導要領』を見れば分かります。海外でもとっくの昔にそう言った英語教育へ実際に転換されている。英語と言えば4スキルが当たり前で、一々「4スキルの英語」と言うのはおかしい。

 

日本だけ実質1スキルベースです。なぜ世界で最低辺の英語力が延々と続くのかと言うと、実効的には他のスキルを教えないので当たり前の結果なわけです。僕の高校の友人は、英語力もある、4スキルを実効的に教えるスキルもある、、、しかし入試があんなんですから、コミュ英語をガンガンやっても「入試をどうしてくれるんだ」とクレームが来る。で、同僚全員が1スキルベース型、、、辛いですね。塾の友人も仕方なくコテコテの文法・読解でやってます。英語嫌いはたくさんでますけどね。

 

1スキルベースで延々と推移する日本の特別な状況があると言うなら、やはり他のアジアの国とどこの環境がどう違うのか、比べて議論しないとどうしようもないないでしょう。延々と動かない、、、Twitterでも、先生方の境遇の辛い話になるわけですね。

 

昨日図書館に行きましたが、英語教育の本も1スキルベースのものがすごく多いです。英語教育の本で、具体的な英語教育のカリキュラム、評価法などの記述がまるでないんですからね。不思議ですね。車の運転の本を買ったら、抽象的な話ばっかりあるのと同じですね。

第二言語習得の本を読んで:オーディオリンガル法が否定されコミュニカティブアプローチが登場。でオーディオリンガル法の代名詞のような暗記もパターンプラクティスも影が薄くなった。

 

学習者の母語と同言語族に属する外国語であれば暗記やパターンプラクティスはそれほど要らないのかもしれない。例えば、東京弁の話者が沖縄弁の習得を試みるのに暗記やパターンプラクティスをするのはtoo muchですね。

 

しかし英語は日本語母語者にとって最難外国語のカテゴリーに入ります。暗記やパターンプラクティス抜きに習得作業は極めて難しと思う。

 

英語圏の然るべき日本語プログラムでは当然暗記やパターンプラクティスはあります。ただし、それらはクラスではやりません。クラスの準備としてクラス外で生徒はやってきます。クラスではコンテクストの中で日本語を使う場です。なのでコミュニカティブなクラス運営が成り立つのであって、クラス外での暗記やパターンプラクティスが無かったらそう言ったクラス運営は全く不可能です。

 

最難外国語と方言のように母語に近い外国語とは区別する必要があると思います。つまり、我々にはオーディオリンガル法的なアプローチとコミュニカティブアプローチ的な要素両方が要るということだと思います。

墨田でのクラスは3年ほどかかって『完全マスター英文法』を使って、膨大な数の日常会話表現を積み上げてきました。英会話の場合はワンセンテンスでピンポンのようなやり取りが多いのです(しかも実際の英会話は広くて深い、相応な英語表現が必要で、そういった現実を無視してはサバイバルイングリッシュで終わりです)。

 

次に、アドリブでパッセージ単位で表現するクラスへと昇華させました。時にパラグラフ(節)や短めのパッセージ(文)が挿入されることもありますし、クラスやミーティングでの発言や電話で顧客へ説明ができるようにするためには、短いバッセージ単位で表現することに慣れる必要があります。実際のシチュエーションに機能するためにはアドリブで出せないとしょうがないのです。

 

『完全マスター英文法』のような本で、ワンセンテンスでの英語表現の引き出しがたくさんできている場合は、この作業はあまり難しくはありません。単に慣れの問題になるからです。

 

やり方はTOEFL iBTのスピーキングセクションの独立型問題のタイプのものを使います。アルクの電話を使ってのスピーキングテストもこのタイプですし、英検1級の2次試験にも似たパターンのものがありますので、それらを利用します。

教科書では、動詞は「be動詞」「一般動詞」でカテゴライズされていますね。しかし、補語を主語に結びつける「連結動詞」と「一般動詞」を分ける方が分かりやすいと思う。

 

つまり、英語の文型には2種類しかなくて、補語をとるか、目的語をゼロから2つとるかのどちらか。「be動詞」「一般動詞」だと、文型の理解・把握が難しい。

 

目的語の後ろに補語をとるSVOCの5文型のOCは、実質主語と補語(SVC)で、SVOCは実質従属節が組み込まれた複文と考えられる。

 

主な連結動詞は以下です。全てbe動詞に書き換えが可能です。動作は伴わない。しかし状態動詞が全て連結動詞かといえば、そうではない。そうでない状態動詞はたくさんあります。

 

appear
be
become
feel
get
grow
look
prove
remain
seem
smell
stay
sound
taste
turn

 

それと「助動詞」に関して少し、、、。

 

be, do, have, getも助動詞になれますので、will, canなどの助動詞はこれらと一緒にして「助動詞」という章で一括りには扱えないと思います。

 

will, would, can, could, have to, be going toなどは話し手の心的態度で、これらの法助動詞(句)は可能性や必要性、丁寧さのグラデーションを表すといったお互いの相関関係がありますので、学年をまたがって、又は章をまたがって少しづつ紹介すると法助動詞(句)の本来の使い方が分かりにくいと思います。

 

例えば、教科書だと中一でcanで、have toやmust, mayが中二で、高校にまで持ち越される法助動詞もあります。バラバラ。

米国務省は外国語を最易外国語から最難外国語まで4つのカテゴリーに分けています。これは「習得」教育では非常に重要なポイントですね。国務省の外国語教育の目的は当然習得教育です。実用にならなければ意味がありませんので。

 

カテゴリー4の日本語のような最難外国語を最易外国語のフランス語のように学ばせれば、習得教育としてはかなり非効率になります。ですので両語は扱いはまるで違います。

 

日本語母語者が英語を勉強するときは、上のことが参考になるのかも。日本語母語者にとっての英語はチャレンジングな外国語です。難言語は相応の扱い方があるわけですね。

 

カテゴリー4の外国語の習得は相応にチャレンジングですが、上級レベルに行くのにその国務省(FSI)の統計によると1,320時間です(この時間はクラス時間数です)。中学・高校・塾・予備校・大学を合わせたら少なからずの生徒はそれくらいの時間はクリア出来るのかも(特に私立校出身の生徒は。当然生徒の集中力にもよりますが)。

 

ちなみに中級で480時間です。その「中級」の定義もしっかり示しています。日本の英語教育でははるかに授業時間を使っていて全てのスキルが初級になってしまっています。その理由は実効的に英語の習得教育を行わないところが多いからです。

 

「2,700時間以上かかる。よって時間が足らないので、学校での英語教育は文法・読み中心でいい」という主張を本で見たりtwitterなどで学者が方々が主張しているのをよく見ますが、これは「超上級」にかかる時間の話しです。実際のFSIの原典、それに準ずる資料に当たらないでHPなどをベースに本を書くとこんなおかしな主張になりやすいわけです。そもそも他の国でコミュ英語も実効的にカバーして成果を上げているではありませんか?

僕は英語が大の苦手で、中高では常に5段階中2しかとったことがない。しかも1に近い方の2。典型的な英語嫌い、落ちこぼれだった。落ちこぼれた理由は、ピアノのレッスンで説明や楽譜読みを延々とやられた感じと似ていると思う。なので、僕は英語嫌いや英語の落ちこぼれの生徒の気持ちが痛いほど分かるつもり。

 

今考えて分かることですが、入試英語のように本来は生きた英語をラテン語を扱うようにやると、多くの落ちこぼれ、英語嫌いが出ます。すると校長先生方が文科省に英語をもっと易しくしてくれと泣きつく。で教科書は単語数などが削られる。教科書は、なんであんなにペラペラなんだろう。

 

でも「易しい英語」は幻で、逆に英語は分からなくなりやすいと思います。高校の数学を中学の数学で説明、理解を試みるようなものですね。

 

ピアノは楽譜読みも重要かもしれませんが、それを弾けてなんぼ(ピアノが弾けるようになるに従って、楽譜読みも楽になってくるんですよね)。そんな当たり前のことが当たり前の英語教育になってほしい。生徒の将来のために。

informed natives、、、これがこれからの英語教育のキーワードかも。

 

「ネイティブだからと言う理由で母語を教えられると考えるのとのは、人間は動物だからという理由でみんなが動物学を教えられると考えるのと同じだ」との趣旨のことをアメリカの学者が言っていましたが、その通りだと思います。

 

日本語母語者には英語は難しい。相応に日英のグラマーのズレが大変込み入っている。そこが英語の習得レベルをスムーズに上げる為のポイントになりますが、ネイティブ、日本人の先生、生徒の三者にキチンとシェアされていないと、ポイントをカバー、つまり弱点の克服するための効果的なティーチングプランは作りようがありません。そのためには然るべき教材が必要なんです。

 

ネイティブは、例えば日本語母語者が冠詞の習得を試みる場合、どこが、どれだけ難しいか知らないといけない(冠詞などは20,30ページでカバーすべき微妙なアイテムだらけですね)。それを知ることが第一段階。

 

第二段階はそれをコミュ二カティブなcontext driven drillsにどう入れていくか。ネイティブのクラス内の役割は、クラスルームマネージャー、モデル、カンバセーションパートナーです。それぞれの役割をキチンと使い分ける。それには、然るべきトレーニングが必要です。

村上春樹のエッセイに『やがて哀しき外国語』という本があります。プリンストン大学で日本文学を2年間教えた時の経験が綴られています。

 

村上氏でさえ他の日本語母語者と変わりません、例によって英語社会では苦労の連続です(だから「哀しい」わけです)。

 

氏の日本文学のクラスでに関しての描写の中で大変興味深い一節があります(p175)(ちなみにアメリカの大学のクラスは講義形式ではなくて議論形式です)。

 

「僕のいるところは大学の東洋学科なので、教職員も生徒もだいたいみんな流暢な日本語を喋る。僕なんかが喋る英語なんかよりもはるかに流暢 ー中略ー こっちもついつい日本語で喋ってしまうし、おかげで僕の英会話能力はますます進歩しない」

 

氏の学生は、中学や高校で日本語はまず履修しておりません(日本語プログラムも持っているところは僅か)。大学に入学してから日本語の勉強を始めた学生が大半だということです。

 

これは驚異的なことだといわざるを得ません。どうして短期間で膨大な期間英語と付き合っている村上氏「が喋る英語なんかよりもはるかに流暢」な日本語で議論ができたのか。

 

日本語は英語母語者にとって最難外国語です。端的に言ってしまえば、その最難外国語にカテゴライズされる日本語の4スキルをバランス良くそして効率よく習得できる教育がアメリカには存在しているということです。最難外国語習得に相応なメソッド(ジョーデン・メソッドとして有名です)、教材が揃っています。

 

こう考えると、はるかに多くの時間英語と付き合っている日本の高校生の高学年と大学生なんかは、それなりの教育環境と相応のメソッドと教材で英語と付き合っていれば、英語で議論出来ておかしくないわけですね。しかも英語は将来的に30億人とコミュニケーションができるようになると言われている国際語です。日本語が流暢になってもあまりメリットがなくても、プリンストンの学生は日本語を高度なレベルまで習得出来ているわけですからね。

 

あまり読めるようにさえならない読解英語に膨大な時間を生徒に付き合わさせるのは「哀し」すぎるでしょう。