昭和の生活(回顧録 その4:小学校高学年(1980年代中盤)②) | 昭和こどもの生き残り。

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昭和後期生まれの管理人が面白かった事、楽しかった事、興味がある事をつぶやくブログです。
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<生活>

小学校生活

5年生からクラブ活動と委員会活動がスタート 

 クラブ活動はいわゆる”部活”とは少し違い、授業の1コマとしてあってました。運動系、文化系いろいろありましたね~。

 

 私は5年生で『折り紙クラブ』、6年生で『百人一首・折り紙・イラスト・マンガクラブ』に所属していました。

 元々折り紙が好きだったのと、以前のブログにも書きました習い事の”習字の先生”が折り紙が上手で折り紙好きに拍車がかかっていた時期だったと思います。

 折り紙好きが集まって、黙々と折り紙を折ってました。時々見せ合ったり、折り方を教え合ったりもしてたかな。

 

 折り紙といえば。

 小学校低学年の時だったと思いますが、クラスで折り紙大会があったんです。

 好きなものを折っていいということで、当時覚えていた中であまり知られてないであろう”コイ”を折りました。うお座

 クラスの中には当然、折り紙をほとんどやったこともない子もいたわけで。そういった子のうち何人かが私の”コイ”を見て、折り方を教えて~とやってきたわけです。

 私は大会だということも忘れて、言われるままに教えました。

で、皆、そのまま提出し。。。

 後日、全員の折り紙が後ろに貼りだされ、入賞者には丸印が付けられていました。私のはと言いますと・・・一度丸印が付けられた後、消されていました。ゲッソリ

 貼りだされた折り紙を見る限り、私の折り紙の出来はかなり上位の方だったと思うのですが、なにせ折り方を教えた子がみんな同じものを提出していたものだから。。。せめて丸印を完全に消しといてくれてたらショックもやわらいだかもしれません。もやもや

 

 6年生の時のやたら長い名前のクラブは人数が少なかった”百人一首クラブ””折り紙クラブ””イラスト・マンガクラブ”がセットにされて誕生したクラブです。名前の順番は人数の多い順。

 それぞれ適当にやっていたのではなく、今日は百人一首、今日は折り紙、と全員で交代でやっていたと思います。

 百人一首は小さい頃から家でもよくやっていたので、結構覚えてましたね。今は全然ですけど。

家では坊主めくりがすごく盛り上がっていました。坊主を引かせる為の替え歌なんかも歌ったりして。

♪ボンジュ~ル、坊主、坊主、ごらん~、愛し~て、ボンジュ~ル~・・・元歌何だったろ?

 

 イラスト・マンガは、それまではほとんど描いた事もなかったのですが、友達の自作の漫画(手のひらサイズで鉛筆描きの簡単なもの)を見て、めっちゃハマリました。その後しばらくマイブームになっていて、自分だけでなく兄弟や遊びに来た友達にもみんな描いてもらってました。その全て、今でも大切に保管してます。

 
 委員会活動はクラスの係の延長で、クラブ活動と交互に集まりがあっていた他、放課後に活動もある委員会もありました。
 私は動物が好きだったので、5,6年共に『飼育委員会』に所属していました。
 

 私の小学校には結構な広さの鳥小屋があり、さまざまな種類の鳥が一緒に飼育されていました。主に地域から寄付されたものだったと思います。鶏や烏骨鶏、キンケイ鳥からインコなどの小型のものまで。スズメやハトが侵入していることもありました。一時はクジャクもいましたよ。私がクジャクを抱えている姿は地域のテレビニュースでも放送されましたチョキ

 

 活動の内容は、鳥小屋内の掃除や餌やり、亡くなっている鳥を学校の畑に埋めたりすることでした。

曜日毎に担当が決められていて、私は家が近かった事もあり、日曜日の担当でした。

日曜日は他の曜日と違い、卵があったら貰える、という特典付きでした。毎回2~3個持って帰っていましたね。

 卵は孵化させることもありました。可愛かったヒヨコがあっというまに可愛くない鶏になっていくのを身をもって体験しました。

 

 あと、キンケイ鳥はキジみたいな感じの鳥なんですが、シッポをつかまれると少しの間バックで走り出してました。不思議でしたねぇ。

 

運営委員会

 6年生になり、各クラスから男女1名ずつ、運営委員を選ぶという事がありました。

 私は当然、1学期に学級委員長に選ばれるような人(成績優秀で行動力もある人)がなるものだろうと思い、自分には関係ないやと思っていたのですが。

 突然誰かが私の事を推薦しやがって、みんなやりたくないものだから、全会一致で私に決められてしまいました。えーん

 

 私は半べそをかきながら『飼育委員会』を辞めたくないので、『運営委員会』はやりたくない!と言ったのですが、その委員会とは違うものなので、飼育委員会のまま運営委員会も出来ると説得され、渋々と引き受けざるをえませんでした。

 

 運営委員会とはいわゆる生徒会みたいな集まりで、全校集会や運動会などの企画・立案や司会・進行をする集まりでした。

 全校集会で司会・進行をする時はもうガチガチで噛みまくってましたね。朝礼台の上でラジオ体操の先導をさせられた時ももう顔から火がでそうなくらい恥ずかしかったです。冗談の1つでも言える余裕があったら楽しかっただろうな、と今は思えますけどね。

 

障害物競争

 運動会で5~6年生だけが参加できた種目。それまでも見ていて楽しそうだな~と思っていたのですが、やってみたらめちゃくちゃ楽しかったです。

 かけっこだといつもビリに近い方の成績でしたが、障害物競争では無双でした。爆  笑グッ

網をくぐるのや平均台ではほぼスピードを落とさず行けてましたし、紐を結ぶ系の障害は男子は結構てこずる子が多くて、そこで結構差を付けれたかな~と思います。

 障害物競争に関しては、中学時代も負けなしです。唯一の自慢!照れ

 

 あ、それから以前、運動会で所属するチームが6年間全敗と書きましたが、今回卒業文集を見たら5年生で初勝利と書いてました。あ、勝ってたんですね~・・・今度書き替えます。

 

修学旅行は広島・宮島

 この時代、九州の小学校の定番だと思っていたのですが、少し離れると全然別の場所だったそうです。

 といいいますのも、修学旅行の意義の1つが平和学習で、平和学習というと、まぁ、広島か長崎となり、あと、新幹線の乗車体験、プロ野球観戦体験ということで広島になったんだそうです(ホークスはまだ福岡に来てませんでした)。

 それを聞いて、あぁ、九州の小学生の修学旅行はみんな広島なんだろうな、と勝手に思ってました。

 

 私、飛行機には乗った事があったのですが、新幹線はこれが初めてでして、妙にワクワクしてました。

 

 広島では、原爆ドームへ。はだしのゲンや平和学習などで見聞きした知識をフル稼働させて、体験してきました。

 残念ながら楽しみにしていたプロ野球観戦は雨の為中止になり、応援のためのしゃもじだけが残りました(笑)。代わりに何をしたかは覚えてません。

 そして宮島に渡り、厳島神社へ。鹿が普通に歩いているのにはビックリでした。いくら田舎とはいえ、鹿に遭遇したことはありませんでしたからね。

 

夏はキャンプ

 6年生の夏に学校行事として、近くのキャンプ場に行きました。

 火を起こすのも、飯ごうでごはんを炊くのも、皆で料理をするのも初めての体験で、とても楽しかったです。流しそうめんも初めてだったんじゃないかな~。

 

 川も近くにあったのでそこで泳いだり、飛び込みもできる少し深いところもあったのでキャーキャーいいながら飛び込んだり、大自然を満喫しました。川の水が思ったよりも冷たく、続けては遊べなかった気がします。

 

 寝泊りはテントではなく、小さなコテージみたいなところで数人ずつのザコ寝でした。楽しかったなぁ。

 

国語の授業で その1

 国語の授業で、班ごとに紙芝居を作って発表するということがありました。

 話は同じもので、ト書きやセリフも決まっていたと思います。なので後は絵や話し方を工夫するくらいのものだったと思います。

 

 絵を皆で描き、1人が代表して読み聞かせるというのが一番多かったパターンで、その次がアニメのように配役を決めて皆で読み聞かせるというパターン。

 

 が、他の班と同じ事をしても面白くないと思った私は、

・動きのあるシーンの絵を、動かせるギミックをつけダンボールで工作して、

・効果音は、実際に再現した音をカセットに録音し、それを再生するという、

かなり手の込んだ作品に仕上げました。

 

 これには先生をはじめ、他の班の人達からも大絶賛で、鼻が高かったですね~爆  笑

 

国語の授業で その2

 6年生の後半だったと思います。教科書に宝の地図みたいな挿絵があり、それを元に物語を作ってみよう!みたいな授業がありました。

 他の教科の授業もあらかた終わってしまって、ゆっくり時間があったと思います。もくもくと物語を書き続け、出来た人から製本してもらい、終わった人と交換して読み合い、感想を述べる、というような。

 はい、以前の記事でも予告してましたとおり、現物がコレです。ダウンダウン

 あらすじは、蔵で宝の地図を見付けた主人公が友達と一緒に宝さがしに行くというオーソドックスなものなのですが。
 当時の私が何に興味があったのか、色濃く反映された物語になってます。てへぺろ
例えば、登場人物の名前や地名が全部ダジャレ(奇面組の影響かな?)だとか、ただの小学生がドラえもんの道具的なものを持っているとか、クラスでのノリがそのまま反映されていたり、めちゃめちゃ方言で話してたりとか。で、宝物が実は身近なアレだった、というオチまで。
 
 真面目な話を書いている人が多かった中で、ギャグの方に振り切っていた私の物語はけっこうウケてました。今読むとめっちゃ恥ずかしいですけどねアセアセ
 
 今考えると、これが漫画を描き始めるきっかけの1つだったのかなぁ、と。
 

好きな教科:家庭科

 5~6年になって始まった教科だったと思います。

料理系には特に興味は持たなかったのですが、裁縫系は大好きでした。

 当時のミシンはまだ足で漕ぐタイプが主流で、微妙な加減が難しいんですよね、手と足が連動しなくって。

 フエルトで小物を作るのも楽しかった。ペンケースやティッシュ入れとか。ボタン付けとか雑巾縫いとかも得意でした。しばらくやらなかったら、全く出来なくなってしまいましたがタラー

 

絵画展で入選

 毎年、図工の授業の一環として、近くの神社で写生大会があってました。写生大会といっても、遠足みたいな雰囲気でしたね。

 絵の具と画板とお弁当を持って朝から神社に行き、好きな場所で写生をして、終わった人は帰るまで遊んでていいという。

 神社が小高い山の上にあったので、冒険するにはもってこいの場所でした。写生もそこそこに冒険をメインにする子も多かったですね。冒険をした子はだいたい古銭を拾ってくるんですよ。先生に見付かったら没収されていたと思いますが、こっそり持ち帰る子もいました。

 私はだいたいギリギリまでかかっていたので、冒険できる子がうらやましかったです。爆  笑

 

 話がそれてしまいました。

そうやって出来上がった絵を、学校が市か何かの絵画展に出品するんです。

で、5年生の時、私が描いた絵が入選して市内の施設か何かに貼りだされました。

 これは嬉しかったですね~。自分、そういうのとは無縁と思ってましたからね。
 
平和授業で作文を朗読
 6年生の時だったと思います。修学旅行で原爆ドームを体験して、その感想を書いた作文が何かに選ばれ、夏休み出校日の”平和授業”の日に全校生徒の前で読むことになりました。
 運営委員で人前に立つ機会が増えたものの全然なれず、この時も緊張のあまりすごい早口になっていたと思います。びっくり
 
 ていうか、今、小学生って夏休みに出校日ってあります?
私の時代には夏休み中に3~4回出校日があったと思います。そのうち、8月6日と9日は必ず出校日で、平和学習(戦争に関するビデオやパネルを見たりする)だったんだけどなぁ。
 
 自分の子供が小学生の頃は8月6日も9日も関係なく、いくつかの宿題を提出する為の1日しかなかったような。。。
 
 平和学習って大事だと思うけどなぁ。
 
穴があったら入りたい事件
 6年生の2学期か3学期、担任の先生が出張でいなかったある日の掃除時間。
教室の前方に置いてあった、箱に入っていた空の花瓶を数人の男子が触ろうとしていました。
学級委員だった私は、割ったら大変だ!と思い、「触らんでっ!」と花瓶に向かって駆けだしたところ足がもつれて・・・・・手をついたところがその花瓶で、見事に粉砕していましたガーン
 幸い、私の手は傷一つない状態でしたが、あまりの恥ずかしさにその後の記憶がありません。
 
将来の夢は”動物園の飼育委員”
 この頃はとにかく動物が好きで、動物と触れ合える仕事がしたい!と思ってましたから、卒業文集にもしっかり書いてましたよグッ

 

多機能な筆箱から遊べる筆箱へ

 小学校高学年になってくると、筆箱も多機能なものから缶ペンケースが主流になってきました。

 開けると中皿が付いているものが多かったかな。

で、通常タイプのものに加え、こっそり遊べるタイプのものも大流行しました。

 中皿に穴が開いていて、ゴルフボールの消しゴムが付属していたパットゴルフが出来るものや、ピンに見立てた鉛筆キャップを並べてボーリングが出来るもの、もっと複雑なものもあったと思いますが、思い出せません。現物も残ってないです。ゲッソリ

 

 学校に不要なものを持ち込んではいけない、というルールをかいくぐってまで楽しもうと日々知恵を絞る日本人って、真面目なんだか不真面目なんだか(笑)。

 

学校での遊び(高学年)

 低学年時に体一つで遊ぶことが多かった理由の1つに、休み時間に貸し出されるボールの争奪戦がありました。

 休み時間になると、ボールが入ったカゴが校庭に出されていたのですが、基本、早い者勝ちでした。

低学年のうちはなんとなく校庭に出るともうボールが無くなっていたことがほとんどでしたが、それもそのハズ。

 高学年になると頭を使い出すんですよね。ボールまで距離が近い教室にいる子は誰かとか、どの先生が時間通りに授業が終わるとか、もしボールが出てなかったらどの先生に言うと出してもらえるとか(ボールを出すのを手伝うと一番乗りできる)。

 なので高学年ではボール遊びをする事が多かったですね。ドッジボールにドッツン、壁当てとか。

 

 ドッジボールはまぁ定番ですよね。だいたいスグ当てられて外野に行ってました。

 あ、ドッツンってわかります?4人対戦のボール遊びなんですが。

 地面にこんな感じでラインを引き、各エリアに1人ずつ入り、自エリアでボールを1バウンドさせてから相手エリアにボールを飛ばし、それを繰り返し、相手エリアに返せなかったらアウト、ボールを送り込んだ人が1ランクアップ(数字の小さい方へ移動)します。最終的に①のエリアにいた人が優勝となります。
 数字のエリアにボールを入れたら一気に最下位までランクダウンするというトラップもあったと思います。もちろん、自エリアから出てもアウトです。
 
 この遊びもどんどんレベルアップしていきまして、ただボールを送り込むというところから、ボールにスピンやカーブをかけて相手に返しにくくさせるというところで技を競うようになってきましたね。

 

コックリさん、キューピッドさん、ともう一つ?

 オカルトブームもありまして、やはりコックリさんなど流行ってました。私も何度かやったことはあります。私がやった時はちゃんとやってきまして、ちゃんと帰って行ってくれたので大事にはなりませんでした。

 ただ、中学の時に不登校だった女子がいまして、その子の不登校の理由が”コックリさんをやって悪い霊に憑りつかれた”という噂でした。あくまでも噂ですけど。ドクロ

 

 私の学校でもコックリさん禁止令が出たかどうかは覚えていませんが、コックリさんの後にキューピッドさんも流行りました。。。。というか、それもよく覚えてないですタラー

 

 私が覚えているのが、その後に流行ったキューピッドさんよりも簡単に出来る、名前も覚えていないのですが、2人で指を合わせてやるタイプのもの。

 その時は友達とお互い自分に気がある女子を教えて(占って?)もらいました。その後、名前が挙がった女子を少し気にしていましたが、特に何もおきませんでしたキョロキョロ

 

担任の先生が定年退職

 3~4年の担任だった先生が4年生の3学期の終業式に定年退職すると聞かされ、みんな泣きながら帰りました。1~2年の担任が若くて元気だったので、3年で担任と知らされた時は「おばあちゃんやん!!」とガッカリしていたのですが、年配は年配でね、いいところがあるんですよ。やさしさと包容力。男子も女子も関係なく〇〇さん、とさん付けで呼ぶのも新鮮でした。まぁ、元々おばあちゃんっ子だしね(笑)。

 

ひいき問題

 6年の時、担任のひいきが問題になりました。同じ事をしても注意される子とされない子がいる、と。

注意される側の子が何人か集まって担任に抗議して、あまりの事に隣のクラスの先生の所に救援を求めに行ったのだとか。

 ・・・だとか、と書きましたが、実は、そんなことになっていたなんて全然知らなかったんですよ。

 後に抗議した方の子に聞いて知りました。なぜ私は知らなかったんだろうと思っていたら、「だってひいきされていた方だもん」と言われました。全然意識なかったけどもびっくり

 

 まぁ確かにね、1つそうかな~と思うのが”丸文字”問題。

6年生にもなると洒落っ気が出て来て、丸文字や崩し文字(ギャル文字?)を書く子が増えてきてました。

 で、ある時担任の先生が、宿題やドリルで丸文字や崩し文字を書いてる子に書き直しを命じたんですよ。そりゃ、全部消して書き直し、ということなのでとんでもない事なんです。

 書き直しを命じられた子の文字を見せてもらって、こりゃ~自分もヤバイかな~、と思っていたのですが、OKだったんですよね。周りからも”え~!”って言われてましたが、OKなものはOKなのよ、と知らんぷり。あれ、ひいきだったのかな~。

 

穴があったら入りたい事件2

 兄と妹とで家の中でかくれんぼをしていた時の事です。

私がオニで、目をつむって数を数えていた時、静かにトイレのドアが閉まる音がしたんです。

 私はてっきり兄か妹がトイレに隠れて見付かっても他人のフリをして乗り切るつもりなんだろうと思い、数え終わると一目散にトイレに向かいました。

 トントンとドアをノックするとトントンと返ってきました。

「もう分かってるから~、早く出て来て!」

 反応がありません。

「バレてるから、早く出て来いって!」

 反応がないので段々と言葉が荒くなっていきます。

「分かっとるって!おるんだろ!!早く出て来いっ!!!」

 そう言ってノブをガチャガチャし、ドアを激しく叩き続けました。

少ししてトイレの鍵が開く音が聞こえたので、勢いよくドアを開けると・・・

中にいたのは当時うちのお店でアルバイトをしていたお姉さん(20歳前後)でした絶望

(店舗にはトイレが無く、隣接している家の方に来るしかありませんでした)

「ごめんなさ~い」と言ってその場から逃げましたが、ニヤニヤニヒヒしながら二階から降りてきた兄の顔が今でも忘れられません。

 お姉さん、本当にゴメンナサイお願い

 

幼馴染みが交通事故

 向かいに住んでいた幼馴染みの子が、6年生の時交通事故にあい、長期入院してました。

 

 道路沿いの塀から道路に向かって飛び降りたところにちょうど車がきてはねられたそうです。修学旅行と卒業式には何とか参加できたそうですが、運動が好きな子だったので、運動会に参加できなかった事がすごく悔しかったと言ってました。今ではすっかり元気です。

 

 私、この出来事は小学校低学年の頃だと思ってましたが、卒業文集にしっかりと日時まで書いてありましたアセアセ。一応、親にも確認してみましたが、交通事故はこの1度だけだったとのことでした。

 

思春期

 1年生の時に好きだったMちゃんとはそれ以来同じクラスになれず何も進展がないままで。3~4年の頃は男子と遊ぶ方が楽しくて。5~6年頃に少し女子を意識するようになってきて。

 

 多少意識はするようになったものの、基本女子なら誰とでも話せていたせいで周りから冷やかされることもが何度かありました。まぁ、子供だったんですね。冷やかされた後は急にその子と話さないようにしてましたもんね。アホや~。

 

 ありがたかったのは、普段男子とほとんど話さなかった女子が、私が友達とファミコンの話をしていたのを聞いて「私、そのゲームクリアしたよ」とか「あのボスはこうやったら倒せる」とか「あのアイテムはどこにある」とか言って話しかけてきてくれた事ですね。

 ファミコンで仲良くなった女子が数人いました。ゲームって素晴らしいデレデレラブラブ

 

 6年生の時、体格も良く、よく男子を追いかけまわして手を出したりしていた女子が、体力測定で握力がひ弱な私より全然低かったのを知り、「ウソや~ん!」と自分の手を全力で握ってもらったら本当に握力が弱くてキュンラブラブってなっちゃいました。人生初のギャップ萌え、ですよね(笑)。

 

 5~6年で同じクラスだったKさん。ちょこちょこ私に話しかけてくれて、子供会でも同じ地域でよく顔を合わせていたので、ずっと気になってました。

 アニメの”タッチ”が流行っている時期で、彼女もタッチが好きだというので、タッチのグッズをよくプレゼントしてました。下級生に冷やかされてからプレゼントするのはやめましたが(笑)。

 

習い事

オルガン 

 この時期はオルガンを習ってました。別に音楽がやりたいってわけではなかったと思います。

例のごとく兄が習ってまして、オルガンの先生がウチに来ていたので、ついでに、って感じでしょうか。

 練習の初めに音階のテストがあってたのですが、それが全然聞き分けられなくって、向いてないな、と痛感してました。

 あと覚えているのが、練習中に太ももに違和感を覚えふと見てみたら、デッカイ蚊が血を吸っている真っ最中だった事ですね。先生が怖くて練習を中断させる勇気がなく、吸われるがままでした予防接種

 オルガンからピアノになるタイミングで私と兄はやめました。妹だけはピアノになっても続けていましたね~。

 

モクモク村のケンちゃん

 いわゆる英語教材です。紙芝居とカセットテープがセットになっていました。

 

 モクモク村のケンちゃんが魔法の国を冒険し魔王をやっつけるというお話で、その魔法の国の言葉が”英語”なんです。

 九官鳥の九ちゃんが通訳のような役割をし、楽しみながら英語を学べる、といったものなのですが。

 

 兄が買ってもらったものだと思うのですが、小さいときより小学生になってから遊んでいた記憶があります。

 英語を楽しんだ、というより、登場人物のしゃべり方や音楽と妙にリアル絵、紙芝居をめくるタイミングをしらせる音(木魚をたたいたような音)などが面白くて、真似してゲラゲラ笑ってました。

 例えば冒険に出発するケンちゃんを止めようとするおじいさんの「ケンちゃ~ん!!」という叫び声とその場面の絵(おじいさんの絵)のポーズをとってからの紙芝居をめくる音(ポクッ)という一連の流れや、 

九ちゃんの「き、み、の、な、ま、え、何て言うの?ファッチュワネイム?(当時の言い方)」や「アイベキュアパードン?(当時の言い方)だよ」とか。

あと、しゃべる木となごやかに話していたのに、ケンちゃんが魔王の城に行くと言ったら急に暗い顔になり「オ~ザキャッスル!オ~ザキャッスル!オ~・・・」とかも。

 

 全5~6巻だったと思いますが、1巻だけで飽きる事が多く、ラストまで見たのはほんの数回くらいです。

ちなみに、兄も私も妹も誰一人、英語を話せません(笑)。 

 

地元の夏祭り

 小学校の校区内の、更には私の地区での夏祭りが毎年8月2日に開催されていました(日にち固定)。

 最終的には神社にお参りするのが目的なのですが、その道中にたくさんの露店が出るわけなんです。

綿菓子、お面、金魚すくい、くじ引き、焼きトウモロコシ、りんご飴などなど。

 

 小さいうちは親や親戚など身近な大人と行っていたのですが、4年生くらいから友達同士で行くのが解禁されまして。まぁとにかく、夜遅くまで友達と遊べるというのが楽しいわけですよ。途中で普段あまり遊んだことがない友達と合流して仲良くなったり、好きな子の浴衣姿を目で追ったりもして(笑)。

 

 中学以降は同じ時期にあってた近隣のもっと大規模なお祭りの方に行く人が増えてきて、同級生をほとんど見かけなくなってしまったのが残念でした。

 

 高校では小中学校の友達と全然違う高校に行ってしまったので、好きだったあの子に会えないかな~と淡い期待をしてお祭りに行ってやたら長時間ウロウロしてましたが、奇跡はおきませんでした。ニヤニヤ

 

子供会

ソフトボール大会 

 春と夏に地域でソフトボール大会があっていた関係で、5,6年の男子は強制的にソフトボールの練習に参加させられていました。

 当時の私は運動が苦手で、野球やソフトボールのルールも知らなかったので、とにかく地獄でした。ドクロ

 

 ルールを知らない事で監督からよく怒鳴られてましたし(野球のルールは知ってて当たり前という人でした)、投げてもボールが届かない、バットを振っても当たらない、走っても間に合わない。

 

 本当にやりたくなかったんですが、練習に行かないと呼びにくるんですよね。そのせいでクリィミーマミの最終回が見れなかった事は今でも恨んでますよ(大人になってからようやく見ることが出来ました合格)。

 

 ポジションはボールが来にくいセカンドやライト、打順は7番か8番が定位置でした。

 

 春の大会は必ず女子3人をスタメンで入れなきゃいけないということで、その時期はいつもベンチでした。

 監督によっては有能な4年生を入れる事もあって、そんな時も真っ先にスタメンを外されるのが私でした。

 

 ただ、ファミコンで『プロ野球ファミリースタジアム』通称”ファミスタ”を遊ぶようになってからは少し楽しくなりました。

 

6年生で子供会会長に

 これもクラスの運営委員と同じパターンでした。

 てっきりソフトボールでも活躍しててリーダーシップを発揮している子が会長もやるんだろうと思ってたら、私。

 で、やっぱりみんな指示に従わないじゃん。完全に面倒な事を押し付けられただけですやん、ね。

 ただ、女子は会長、会長って言って色々手伝ってくれましたね。チュー

 

懐かしの味

ミルクセーキ

 牛乳に溶かすだけで作れる飲み物。いちご味が好きで、いちご味ばかり買っていたのですが、必ず1つ違う味のが入っているんですよね。で、それだけがずっと余っていって・・・すごい迷惑でした(笑)。

 

オロナミンCに卵黄

 兄弟の中で普段食べたり飲んだりしているものを少しアレンジするというのが流行ってまして、誰が思いついたのか忘れましたが、オロナミンCに卵黄を入れてかき混ぜて飲むというのがありました。

 完全には混ざらなかったと思いますし、味も全く覚えていませんが、今となっては考えただけでウッときそうです。子供の味覚ってタラー。くれぐれも真似しないように!(笑)

 

ふりかけに塩と砂糖

 こちらも食べ物アレンジの1つだったと思います。

ある時妹が「お腹すいた~」と台所を探すも何も食べるものがなく。テーブルの上にあったキャラクターもののふりかけをお皿に出し、塩をかけて「あ、ちょっとしょっぱい!」と、砂糖を加えて「あ、美味しい!」とやってましたね。兄も私も賛同はできませんでしたゲロー

 

ビデオテープレコーダーの進化

 当初、番組を録画する時はその時間に自分で録画ボタンを押さなければいけませんでしたが、この頃くらいからタイマー予約できるものが登場しました。

 登場したものの、しばらくは1つしか予約できないものがほとんどで、複数予約できるようになったのはもう少し後でした。

 ウチには結構早い段階で3つまで予約できるビデオテープレコーダーがありまして、それが(コードでつながってましたが)リモコンも付いてました。父が新しいもの好きだったのかなぁ。

 が、扱いが複雑すぎて兄しか操作できなかったので、結局はその時間に録画ボタンを押す生活が続いていたのでした。チーン

 

小型ラジカセ

 父がよく講演を録音してた関係で、通常のラジカセとは別に小型のラジカセ(iPadくらいの大きさ)がありました。

 これがまたアニメの主題歌を録音するのにちょうどよくて。

 よく体験談とかで、テレビの前で録音してたら親兄弟が近くでしゃべり出してその声まで録音されてしまった・・・とかありますが、ウチではコードをつないでいたのでそういう事はありませんでした。

 

 ただ、当時はこの仕組みが分かってなく、よく失敗していました(録音ができてない状態)。

今みたいにコードをつなぐところが”in”や”out”ではなく、”mic(マイクをつなげる)”と”ear(イヤホンをつなげる)”だったような気がします。

 

 なので今考えると、テレビ側のイヤホンを挿す穴とラジカセ側のマイクを挿す穴をつなげるのが正解だったのかな、と思いますが、当時分かってないので一か八かでしたね。

 つなぎ方が合ってたとしてもテレビの音が聞こえなくなるので、スタートするタイミングが早くて主題歌前のCMが丸々録音されてしまったり、タイミングが遅くてイントロ部分が欠けてしまったり。

 終わりも早いと尻切れトンボになるし、遅いと次のCMが少し入ってしまうし。なかなかシビアでした。
 

 録音しようとした時が最終回だったり、翌週から変わったりした時は泣くしかなかったですね。えーん

 

 そんなこんなして作り上げたカセットテープが、今でも残ってます。

 当時は誰でも自分のベストソング集を持っていて、遊びに来た時に聞かせたりして。
個性が色濃く反映しているので、いわゆるコミュニケーションアイテムとして大活躍していました。飛び出すハート 
 
ヒーローごっこ
 兄弟でよくヒーローごっこをしていたのですが、兄が正義側ばかりやりたがるうえに、格好ばかりつけるので私が『格好ばっかりつけちょマン』と命名しました(笑)。時々参加する妹には『格好ばっかりつけちょ子』とし、私は悪役としてつけちょマンとつけちょ子をやっつけていました。
 

車から転落

 先に言っておきます。絶対真似したらダメですびっくりマーク

 

 実家が自営業で、ダンボールなどのごみが大量に出ていたので、時々、軽トラックでごみ処理場に持っていってました。

 当初はゴミが飛んでいかないように、と荷台の部分に乗せられていただけだったのですが。

 

 慣れてくると進行方向に顔を出して風をきるのが楽しくなり、さらには手を放してバランスをとって風に耐える、ということをするようになり。

 

 その状態の時に車が右折したんですよ。

 

 そうしたら・・・・・ハイ、ご想像のとおり。

 

 私、車の荷台から投げ出され・・・バカですよね~。

 運転していた父は私が吹っ飛んだ事に気付かず走行を続け、助手席に乗っていた妹が私が居ない事に気付き、戻ってきました。のんきなもんです。

 

 幸い、柔道を習っていたことが功を奏し、とっさに受け身をとって大事には至らなかったんですが。

もし受け身をとれてなかったら、そのまま数メートル下の川に転落(下はコンクリート)して骨折だけじゃすまなかったでしょうね。

 

西部警察のロケ不発

 時期はよく覚えてないのですが、私の地元にも西部警察のロケが来ました(当時、全国十都市くらいでロケがあってたようです)。

 県内でも毎日場所を変え撮影され、撮影後にはファンサービスもあってたようで、その様子が毎晩地元でニュースになってました。

 そして私の住んでいるところの一番近い場所のロケの日に、知り合いに見に連れて行ってもらったんです。

 が、ロケがあると思っていた場所にロケ隊はおらず、インターネットもまだまだの時代でしたからそれ以上情報もなく、諦めてデパートで食事をして帰りました。

 きっとロケが中止になったんだろうと思いながら、その日の晩のニュースを見てみたら・・・しっかりロケはあってました絶望ガーン。ロケ場所も全然違う場所でした絶望ガーンガーン。しかもこの日はギャラリーがかなり少なかったようで、いつも以上のファンサービスが行われていました絶望ガーンガーンガーン

 

沖縄研修

 5年生と6年生の時、地元企業主催の沖縄体験の旅に参加させてもらいました。

なんとなく分かってきたかもしれませんが、私が行きたい!と言い出したわけではありません。

 兄が6年生の時にこの存在を知り、兄が体験してきて楽しかったそうなので、私にも体験させたい、と親が提案してきたものでした。

 人見知りだった私は他にも仲のいい友達を誘う事と、その友達と同じグループにしてもらう事を条件にOKしました(主催企業に知り合いが居たので融通をきかせてもらいました)。

 結果、5年生の時は私を合わせて4人で参加しました。
 内容は守礼門や万座毛、白百合の塔や戦争資料館の見学。パイナップル園でたらふくパイナップルを食べたり、ハブとマングースの対決を見たり。
 で、メインはカヌーやカッターなどの海洋スポーツ体験でした。全てが初体験で、帰る頃にはまた来年も行きたい!!ってなってました。
 そこで仲良くなった友達もいて、皆で来年も来ようねグッと約束をして沖縄を後にしました。
 
 6年生になり。約束を実行できていたのは、私と私の親友2人だけでした。ゲッソリ
2人とも2回目の参加ということで、班長をやらなければいけないルールでしたので同じグループには出来ないと言われていたのですが、部屋割で先グループで最後の私と、後グループ最初の友達としてもらい同じ部屋になってました。ありがたかったです。
 
 2回目とあって少し余裕のあった私は、スタッフにも積極的に話しかけて仲良くなり、バスガイドさんも去年と同じ人で私や友達の事も覚えてくれていて、とても楽しく過ごせました。
 
 5年生の時に雨などで都合が合わなかった場所へも行けましたし、逆に5年生の時に行けた場所に6年生の時は行けなかったこともありました。
 
 スタッフと仲良くなったおかげで思いっきり楽しめたエピソードがあります。
海洋スポーツ体験は色々あったのですが、”海で泳ぐ”というのが無く、泳ぐのもホテルのプールだけだったんです。
 でもどうしても沖縄の海で泳いでみたくて、スタッフに海で泳ぐ方法はないかと相談したところ、「カヌーの時間にわざとひっくり返ったらいいよ」と言われ、実行しました(笑)。
 多分、沖縄の海で泳げたのは私とカヌーでペアだった子の2人だけでしょう。いい思い出です爆  笑

 
 余談ですが、コレに参加するというと知り合いからおこづかいを貰えるということが分かり、お土産を安く済ませれば残りが全て自分のこづかいになる!と思った私は、6年生の時にお土産をかなりケチり、残ったお金でファミコンを買いましたお祝いクラッカー悪いナ~(笑)。
 
 
 
 
 
ギャー!!
 当初4つの項目を書いていたのですが容量オーバーで3つになり、続けていたらまた容量オーバーになり、結局2つの項目だけになってしまいました。さらに1つのみに。
散々遅れたのにスミマセン。お願い