昭和の生活(回顧録 その4:小学校高学年(1980年代中盤)①) | 昭和こどもの生き残り。

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昭和後期生まれの管理人が面白かった事、楽しかった事、興味がある事をつぶやくブログです。
同世代の明日の活力の、若い世代の新たな気付きの、きっかけになれば幸いです。

あああ・・・ドラクエ10とアナデンでブログまで手がまわらないアセアセ

 

 

 

 

 

<個人的世間の関心事>

”E・T”ブーム

 1982年末にスティーブン・スピルバーグ監督による『E・T』が公開され、またたく間にブームになりました・・・と書きますが、私が知ったのは実際の『E・T』からではなく。ニヒヒ

 ブームの副産物といいましょうか、グッズやバラエティ番組や漫画でのパロディからでした。

 

 まず最初が、父親が付き合いで買ってきたE・Tのぬいぐるみ。50センチくらいの。

初めは妹に、ということでしたが、妹は”コワイからいやー”、とのことで私が引き取ることに。

その後大学に進学するまで夜のお供でした。ウインク

 
 それから手元にあったコレ。   ダウンダウンダウン

 人形消しゴムっぽいんだけど、目に別物が入ってる。でもガチャガチャじゃないと思うんだけどなぁ。
文房具か何かのオマケだったかな?けっこうリアル。
 
 他にもひょうきん族では”いーてふ”というキャラがいました。超人キンタマンの漫画にも”いーてー”っていましたよね?
 

”エリマキトカゲ”ブーム

 CMか何かで取り上げられて、これも瞬く間にブームになりました。その後、色々な番組でフューチャーされるようになり、家族でよく見ていました。目
 ブームになるとやたらとグッズが発売されるのはもはやパターンですね。
さすがにこの時は親からの何かとかはなく、ガチャガチャや駄菓子屋で売られるおもちゃによって子供達に浸透していきました。

 

”ウーパールーパー”ブーム

 ♪ア~イア~イアイ、ボクはウ~パ~ル~パ~、U~FO~からやって~きたん~だ・・・

 エリマキトカゲブームと入れ替わるように、やってきました。

もう何なんでしょうね。エリマキトカゲもウーパールーパーも前からいたものなんでしょうけど、フューチャーされるとたちまち世間が夢中になるとゆう、ね。

 しかしウーパールーパーの場合は特にグッズが!とかは無かったと思います。

今でも熱帯魚を売っているようなお店にいくと普通に売ってますよね。飼育できるんですって。私はしないけども。

 

東京ディズニーランド開園

 記憶が確かではありませんが、開園して間もなくに行ったんじゃないかなぁ。元々、我が家がディズニーとは全く無縁だったのでただ大きな遊園地に行った、という感覚だったと思います。ニヒヒ

 

 2回目は大学入学前の春休み。その時は私、駅のホームの階段から転がり落ちて足にギブスしてました。絶望おかげでほとんどのアトラクションで入場不可をくらってしまいましたゲロー。父親と二人で家で数日を過ごす、というのが嫌で無理やり同行したので仕方ありませんが。

 

 3回目は大学時代。私が主催していた漫画サークルのオフ会で(漫画サークルの事はまた後日)。全国から(ちょっと言い過ぎ?)同世代の男女数名が集まり、この時が一番楽しかったなぁ。

 

 ディズニーシーが開園してからは1度も行けてません。というか、ランドとシーの違いもよく分かっていません。滝汗

 いつかまた行きたいな~とは思ってますが、USJが開園してからはUSJの方が優先順位が上になっているので、はたしていつになることやら・・・。

  

長崎オランダ村開園

 ハウステンボスより以前にあった、長崎のテーマパーク。

 こちらも開園後まもなく、家族で(父親を除く)で行きました。

 

 ハウステンボスが開園してからは会場を行き来できるようになってた気がします。

 今ではハウステンボスの記憶とごっちゃになってると思います。ニヤリ

 

つくば万博

 1985年に茨城県で開催された博覧会。

 これも行ってますね~。

 キャラクターは見覚えありますけど、内容は全く覚えていません。
 Wikiでも細かい内容を確認してみましたが・・・。また何か思い出したら追加します。ウインク
 
電電公社からNTTへ

 それまでは電話会社は”電電公社”1社のみだったのですが、1985年に自由化され他社の参入も認められるようになりました。それにより、電電公社は民営化され、現在でも知られる”NTT”となりました。

 

 え?子供には関係ないじゃん!?と思われるでしょうが、全くその通りです。!

生活としては特に何が変わった、ということは無いのですが、なぜ強烈に印象に残っているのかといいますと、コレです。

 そうなんです、テレホンカードです!

当時は切手収集と同じように、テレホンカード収集も流行ってました。もちろん、兄の影響で私も細々と収集しておりました。

 

 国が管轄する切手と違い、誰でも参入できるテレホンカードはデザインや希少性も様々で、欲望がモロに反映する(笑)資産価値のあるアイテムとなっていました。

 当時は雑誌の懸賞でアイドルのテレホンカードが定番でしたし、企業が販売促進として配ったり、今でいう”QUOカードプレゼント”的な配布も多かったです。

 

 で、ですよ。

 NTTになってからもう少し後の事なのですが、”電電公社”名義のテレホンカードの価値が爆上がりしたわけですよ。

 え!?ってことで私も自分のコレクションの中を探してみたら・・・

 あったんですよ!!。ムヒョ~!!!ですよ。
一番いい時で20倍以上の値が付いていたと思います。
 子供だったので売ろうという気は全くなく、スゲェもん持ってるぞ、オレ、って思ってるくらいでしたね。
 
 今ではもう定価以下らしいですけどね。
 
 というわけで、電電公社からNTTへというと強烈な印象が残っていたわけですね、ハイ。
あ、後日テレホンカードコレクションも記事にしようかな。

 

新紙幣

 1984年(昭和59年)11月、小さい頃から慣れ親しんできたお札が変更になりました。いや、5千円とか1万円とかはあまりみてないですけど。博文さんだけっスね。

 

ダウンダウンダウン

 

 

  5000円札、マギー司郎!?今のお札よりこちらの方が馴染み深いナ~。サイズも少し小さくなったんでしたっけ?

 

グリコ森永事件

 詳しいいきさつなどは省きますが、当時の子供として覚えているのは、事件後、お菓子がフィルム包装になったことですね。

 当時はグリコのおまけ付きキャラメルとかよく買っていました。

フィルム包装になる前までは小さい子が箱を開けちゃったけど、そのまま売られてる、ということも時々あることでしたが、フィルム包装になったら、開けたら完全にアウトになりますよね。

 

日航機墜落

 お盆の時期だったこともあり、ガッツリと報道番組やニュースを見ていました。

それまでも何度か飛行機の墜落事故は知ってましたが、その頃は家族旅行などで飛行機に乗る機会も増えており、少し前にも飛行機に乗ったばかりだったので、とても現実的に感じていました。

 しばらくの間、飛行機に乗るのがすごく怖かった思い出があります。

 

 

 

 

 

・・・容量確保の為、分けました。