江戸東京たてもの園を見学しました。
近所の友達が帰省し、遊び仲間がいなくてストレスが溜まっている三男を思い切り遊ばせようと小金井公園に遊びにいくと、本日は入園無料だというので、入ってみたのです。
広い敷地内に江戸から昭和初期の頃までの様々な建物が復元展示されていて、楽しむことが出来ました。
田舎育ちの私にはやはり農家の方が懐かしく感じます。
多くの建物の中で印象に残ったのは、高橋是清邸。
主屋部分が移築されたものだそうですが、あの二・二六事件の現場となった二階の寝室も見ることが出来ました。
さて、二・二六事件を皆さんはどのように捉えておられるでしょうか。
私は中学校、非常に不思議に思っていました。
例えば、小平市で使用されている清水書院の歴史教科書ではこのように記述されています。
「1936年2月26日には、陸軍の若い将校らが政府の高官たちを暗殺し、重臣や政党政治家を除いて天皇が実権を行使する政治改革を要求した(二・二六事件)。この事件の後、政党政治家やアメリカ・イギリスと協調しようとする重臣の力は弱まり、軍部は自分たちの要求を実現していくようになった。また、天皇を絶対的な存在とする国家主義が強まり、社会主義者への弾圧に加えて、国家主義に少しでも反するとみられた言論や活動が取締まりの対象となった。」
息子の通う中学校で使用している東京書籍の歴史教科書では、
「1936年2月26日、陸軍の青年将校が軍事政権の樹立によって政治改革を実現しようとして、首相官邸や警視庁などを襲撃しました(二・二六事件)。この計画は失敗に終わりましたが、これ以後、軍部は政治的な発言力を強め、軍備の拡張をいっそう進めていきました。」
いずれも、流れとしては
軍事政権樹立を目的にクーデター
↓
失敗
↓
軍部が力を強め政治を支配
と、なっています。
なぜ、軍事政権樹立に失敗した後に軍が発言力を高めるのでしょう。
中学生の頃、ここがよく分からなかったのです。
非常に教科書の記述が浅いことにより、疑問が生じてしまいます。
ことによると誤解を招いているかもしれません。
クーデターを起こしたのは陸軍皇道派。
そして、これと敵対関係にあったのは陸軍統制派です。
つまり、皇道派の決起失敗で統制派が実権を握ったことにより、国内では言論統制などの弾圧、対外ではシナへの進出という方向へ流れていった。
その後、日本が辿った道はご承知の通りです。
シナ進出よりもコミンテルンを警戒し、西洋資本主義に操られていく日本を危惧したのが皇道派であったならば、大局を見誤っていなかったのは、皇道派と統制派のどちらでしょうか。
もしかすると、今の日本も似たような局面にあるのではないでしょうか。
過去に学び、大局観をもった外交が今、求められています。