富海地区と勤皇の志士達 | 世のため人のため~“メガホン侍” 伊藤央

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代議士秘書10年、山口県防府市議6年。現在は東京都小平市議(2期目)。地方から日本を改新し、世界を救うことを目的に活動中。日々街頭に立ち、思いと政策を訴える“メガホン侍”。

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相変わらず、週末はウォーキングイベントの参加が続いています。

今週も昨日、今日と続けてウォーキングイベントに参加。

昨日は我が防府市富海地区の旧山陽道を中心に幕末の歴史を散策するウォーキングイベントでした。



富海地区では、幕末に勤皇の志士を匿うことが多かったそうです。

防府市では幕末の志士との関わりと言えば、天満宮や三田尻など萩往還が思い浮かびます。

しかし、当時の藩論はかなり揺れ動いてましたので、公武合体派・佐幕派が実権を握っていた時期には萩往還という表街道を尊皇攘夷派の志士が堂々と通ることが難しかったようです。

そこで、防府の海の玄関口である三田尻ではなく、富海を利用することも多かったのでしょう。

また、漁船が発展した小型の高速の船「飛船」は、志士たちの活動を支えることにもなりました。



そんな富海地区と勤皇の志士との関わりについて、史跡を巡りながら史談会の皆様に様々なことを教えていただきました。


イギリス留学していた伊藤博文と井上馨が急遽帰国した際に上陸した地。


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この時、二人は飛船問屋入本屋に身を寄せています。



同じく飛船問屋の大和屋政助の船蔵跡。


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大和屋政助は禁門の変にも同行したそうですが、この船蔵には高杉晋作が身を寄せたそうです。



富海の旧山陽道はまだ古い家などが残っていますが、主をなくし傷みの激しいものも目につきました。

防府市は宮市~国分寺の景観づくりに力を入れていますが、私の目から見れば富海地区の方が守るべき建築物が多いように感じます。


こちらは富海本陣跡。


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ここには篤姫が宿泊したこともあるそうです。



さて、志士達の話に戻ります。

前述したように、萩から山口、そして海に出る三田尻の萩往還が表街道とすれば、“裏”から秘密裏に海へと出入りするのがこの富海。

では、富海から萩まではどこを通るのかと言えば、私の住んでいる小野地区を抜け、旧徳地町へと向かうルートを使ったらしい。

どうも高杉晋作も何度かこのルートを使っているようで、とすると、私の家の近所を高杉晋作が歩いたということのようです。


これは全く知りませんでした。

そう思うと、毎日通る道からもなんだか志士達の思いが伝わってくる氣がしてくるから不思議なものですね。







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