伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第76回 挙兵する武士団  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

基本的に毎日の更新を目指します。コメントには出来る限り返信を付けます、ご遠慮なくコメントを入れてください。

 以仁王と源頼政の挙兵はあっけなく潰されますが、以仁王の令旨が全国に撒かれると様子が違ってきます。天皇が出す綸旨にしても、院が出す院宣にしても、出した人に権力がなければただの紙切れです、ましてや皇族ならば誰でも出せる令旨などは価値がなく、出した本人が死んでいるとなれば紙切れにもならない代物なのですが、自分たちの権利を守ってくれない平氏政権に対して地方武士の不満が高まっているときだったので、以仁王の令旨が効果を発揮するのです。

 

 平将門のように本人がいきなり新皇になってしまうと、どうしてあんな奴が新皇なのかと世間は反発します。以仁王の令旨を奉じて平家打倒の兵を挙げるとなると、個人の資格で反乱を起こすよりは世間の賛同を得やすいのです。以仁王の令旨が法的にはなんの効力も持たないものでも、世間的には一応の大義になってくるのです。挙兵は取り込むべき世の中に対する不満が少なければ成立しませんが、不満が高まっていると応じる者たちが出て来ます。

 

 関東は平治の乱で負けた源義朝が、鎌倉に本拠地を置いて子分になる武士団を集めた土地なので、平氏は慎重にその利権を保護して懐柔するべきでしたが、安徳天皇の外祖父となって政権を掌握した平清盛は、伊藤忠清を関東目代、上総介に任命して、関東の武士団が持っていた利権を露骨に巻き上げにかかりました。

 

 伊豆に流されていた源頼朝を関東武士団が担ぎあげたのは、源氏への忠誠などといったものではなく、自分たちの利権を脅かす平氏の権力を関東から追い出したい、その旗印として武家貴族で関東にいた頼朝を担いだわけで、頼朝は挙兵を正当化する旗印として、叔父の新宮行家が持ってきた以仁王の令旨を使いました。流人である頼朝にはなんの力もありませんが、父親の義朝が武家源氏の棟梁として、清盛に対抗する存在であっただけに、頼朝は平氏に対抗できる存在と世間が考えたのです。

 

 京の武士団と地方の武士団は主従関係ではありません、領地を与えて主従の関係は成立します、この時代の京の武士団には領地を与える権限はないのです。京に出て摂関家や院に仕えるようになって権門に口が利けるようになり、地方武士団の利権を守ってやることで、以前は対等だったのを、親分子分の関係に持って行ったのです。

 

 京の武士団の闘争で生き残った平氏は政権を手にしますが、地方武士団との関係は引き続いて親分子分の関係に過ぎず、平家に仕えるものとして組織する時間のないまま、一門の者たちの栄達を図り、官位が上がっても朝廷からは給与が出ない当時の仕組みの中で、栄達した一門に経済力を付けさせるために、儲かった知行国主や受領の半ばを押さえ、伊藤忠清を上総介に任命したように、地方武士団の利権に逆に手を突っ込むことをやったのです。

 

 知行国主や受領を横取りされた貴族たちも平氏に反感を持ち、利権に手を突っ込まれた地方武士団も反感を持つ、といった状態のなかで以仁王の令旨が出回ったのです。