伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第77回 源頼朝  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊豆に配流されていた源頼朝のところにも以仁王の令旨が届きます。頼朝は捨て身の挙兵をするような人ではないので、赦免して京都に召喚して、義朝の領地の一部を返還して、挙兵した源頼政が座っていた京の源氏の代表者の地位を与えるという手が平氏にはありました。殺し合いを好まない藤原摂関家であれば、多くの場合にそうしていました。

 

 領地も家来の数の圧倒的に小さいが、格だけは高くしておくといった扱いで、都に住まわせるといった話であれば、勝ち目が乏しい挙兵を避けて頼朝は受けていたはずです。若い頃の柔軟な平清盛であれば頼朝赦免という手を打っていたはずですが、最晩年に来ていた清盛は以仁王の令旨を受け取った者は全員討伐と決めていました。

 

 令旨を受け取ったといっても新宮行家が勝手に持ってきただけで、以仁王の挙兵に参画していたわけではないので、成立する話だったのですが、清盛にこれを提案する者も平氏一門のなかにはいませんでした。清盛の独裁権が強くなり過ぎていたのです。

 

 清盛の硬直した方針が、一か八かの挙兵に踏み切らなければ殺されるとところに頼朝を追い込んで、窮鼠にしてしまったのです。流人である頼朝には兵力はないので、妻の実家の北条氏を頼っての挙兵で、北条氏も小さな豪族なので、挙兵は小人数の小さな反乱で、すぐに鎮圧されます。

 

 平家方は頼朝の叛乱を鎮圧したものの安房へ逃げられてしまいます。安房を経て上総へ入ったところで、上総介広常、千葉介常胤などの武士団が参陣して、頼朝は武蔵を経由して、父親の源義朝が根拠地にしていた鎌倉に入ります。敗残の身で伊豆から安房への逃れた頼朝が、東京湾岸を一周しただけで大勢力になるという奇蹟が起きました。平氏が関東武士の利権を守らず、逆にその権益に手を突っ込んできたからこのような事態になったのです。

 

 こうなると武力討伐しかないわけで、清盛は嫡孫の平維盛を大将とする討伐軍を派遣しますが、道筋で参加する者が少なく、期待通りに軍容が膨らまないままで、富士川で頼朝の軍勢と対陣して、大敗を喫して都に逃げ戻ることになります。

 

 頼朝は逃げる維盛を追って上洛しようとしますが、関東の武士団の頭領たちが難色を示したので鎌倉に戻っています。京の武士団出身の頼朝は京へ行きたいのですが、関東にいて自分たちの利権を保護できる体制を作ってくれという関東の武士団の要求に屈するのです。

 

 頼朝は京の武士団の嫡系であり、関東の武士団に対する本来の仕事は京の権門への口利きですから、義朝のように京の騒乱に巻き込まれて死ぬのは愚かであって、関東に居て、京の権門のとの交渉に当たってくれというのが関東の武士たちの考えで、武力を持たない流人で、他に京の権門に口が利ける人がいないから担がれただけの頼朝としては、その意向に逆らうことは出来なかったのです。