伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第71回 藤原信頼  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 廃れ皇子から天皇になり、保元の乱に勝った後白河天皇は藤原信西入道を知恵袋にして親政を始めますが、直ぐに退位して上皇になり子の守仁親王が二条天皇として即位します。後白河を指名した鳥羽上皇は、守仁親王が優秀だから天皇にしたいが、その父親を飛ばすことは出来ないので、即位したらなるべく早く譲位して守仁親王に代われという遺志を示していましたから、これは予定通りのことでしたが、後白河が院庁を設置して院政を開いたので、二重権力のような状態になります。

 

 白河法皇や鳥羽上皇の院政の時は、院が絶対権力を握っていましたが、無能の評判があった後白河上皇の権力基盤は弱く、若いが有能とされていた二条天皇のもとに集まる廷臣も少なくなかったので、院政が強いとは言えない状態になっていたのです。

 

 院政を始めた後白河は、でたらめだった政治の刷新に取り組む藤原信西入道が鬱陶しく感じ始めます。信西に代わって、藤原信頼という者を後白河は寵愛します。父親が地方官を歴任したあと非参議三位で終っていますから、朝廷では出世できる立場ではありませんが、こういうことを自由に引き立てることができるのが院政です。「平治物語」には、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし」と書かれるような人でしたが、後白河の引き立てで官位が急上昇するので、本人は増長して近衛大将を望みます。

 

 信西から、お前のようなバカがなにが大将だと拒否されると、信西を除いて自分が院庁の動かす立場になろうとします。保元の乱で働いたにも関わらず、平清盛にはるかに劣る扱いに不満を抱いていた源義朝と接近します。信西は清盛を重用していたので、反信西で信頼と義朝は手を結ぶことができたのです。

 

 信西を支えていた清盛が熊野詣でに出かけます。信頼と義朝はこの隙を突いて挙兵します。このころになると、朝廷の有力者でも武家と組まねば力が振るえない状態になっていました。関白藤原忠通が保元の乱の勝者であるにも関わらず力を落としているのは、先祖から摂関家に仕えていた源氏が離れてしまったからです。清盛の留守は信西にとっては危険なことでしたが、信西はさほど警戒した様子はなく、挙兵を許してしまったから慌てて逐電します。

 

 義朝が率いる反乱軍は、三条天皇を押さえて官軍になり、宇治の田原に潜んでいた信西も討ち取り、信頼はお手盛りで望んでいた近衛大将に任官し、義朝を、平氏が長年に渡って勢力を扶植していた播磨の国司に任命し、義朝の子にも官位を与えます。これは、軍事力で天皇の身柄を押さえてしまえば、天皇の意思も、廷臣たちの評定もなにもなしに、官位を自在に配分できるという前例を作ることになる行為でした。

 

 こういう事態になったのは後白河が定見もなしに、信頼のような人間を寵愛したからであり、その後も、朝廷の権威や政治力を落として行く愚行を後白河は続けて行くことになります。