伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第72回 平治の乱  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 熊野詣の道中で藤原信頼と源義朝の挙兵を知った清盛は、恭順を装って都へ引き返します。都に戻ると六波羅の自邸に入ったまま動きません、表向きは二条天皇を抱える藤原信頼と源義朝に従う姿勢を見せていますが、信頼と義朝に取り込まれている二条天皇の元へ赴くようなことはしません。

 

 清盛は六波羅邸に逼塞しているようにみせかけて、朝廷内の反信頼の者たちと連絡を付けて、二条天皇を脱出させて六波羅邸へ迎え入れます。後白河上皇は六波羅邸ではなく仁和寺へ逃げています、どちらが勝っても良いようにとの思案であり狡いのです。

 

 この間の経緯を見ると清盛の作戦勝ちというよりは、信頼と義朝の無能さが目立ちます。信西を討ち取ったらすぐに清盛討伐の綸旨を天皇に出させ、熊野詣でから帰京する清盛を討ち取るべきでした。清盛が入京してからも天皇を擁しているのですから合戦の名分はどうにでもなります、早い時期に六波羅邸に夜襲を仕掛けて討ち取るべきでした。

 

 六波羅邸には、平氏方の武士団が伊勢などから駆けつけて来て兵力が膨らんでいます、義朝方になっている関東の武士団は遠くてすぐには都へ来られません、それを考えたら義朝は早い時期に合戦を仕掛けなければならないのに、信頼の優柔不断に引きずられて時間を空費していました。

 

 二条天皇の側近が平氏に寝返り、天皇を連れ出すことを許してしまったのは大失策であり、義朝は負けた後で、「日本一の不覚人」と信頼のことを罵っていますが、総大将になっていた信頼がお粗末過ぎました。合戦が始まると、信頼も鎧を付けて出て来ますが、平氏勢が攻め寄せると、「防げ武者ども」と叫んで自分は逃げてしまうという情けなさでした。

 

 天皇に逃げられて掲げる旗印もなくなった反乱軍が蛻の殻の内裏に籠っている状態となって、信頼と義朝は漸く開戦を決意しますが、戦機は去っており、惨敗して、義朝は尾張の内海の荘で長田忠致に殺され、信頼は後白河を頼って仁和寺へ逃げ込むが冷たく見放され、六条河原で斬首されます。

 

 平治の乱は小規模な市街戦でしたが、天皇を取り込めば官位などはどうにでもなる、今まで大変な政治としてやっていた公卿詮議など無意味なものだった、権勢の頂点にいても武家の保護がなくなれば簡単に殺される、といったのちの権力を巡る武力闘争の原形となった戦いでした。