伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第70回 崇徳天皇  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 系図上の父親の鳥羽上皇から叔父子と呼ばれて嫌われた崇徳天皇は、その名を顕仁といいます。崇徳天皇という呼び名は、死後20年を経た寿永3年(1184年)に贈られたものであり、それまでは罪人として元天皇の扱いは受けず、讃岐院と配流の地の名前で呼ばれていました。

 

 都を離れて死んだ天皇の諡号には、徳の字を入れるとされていて、孝徳、崇徳、安徳、順徳、顕徳とありますが、崇徳の崇の字は祟に似ているというか、祟の天皇という意を含んでいます、祟った人としては崇道天皇がいます、諡号に同じ字が含まれています。

 

 叔父子として系図上の父親に嫌われました、本人にしてみれば叔父子に好んで生まれてきたわけではなく、鳥羽天皇の中宮を犯した白河法皇が全面的に悪いのですが、絶対権力者たった祖父に逆らえない鳥羽天皇は、白河法皇が生きている間は忍従して、死んだら叔父子の崇徳を迫害することでその恨みを晴らそうとします。崇徳にしてみればこれほど理不尽な話はなく、政権を取ろうと兵を挙げたら、手を結んだ右大臣藤原頼長の目論見は外れ、有力な武士は廃れ皇子の後白河天皇に奔ってしまい、一夜で惨敗します。

 

 事実上の総大将だった藤原頼長は流れ矢に当たって死に、武士たちは死罪になり、崇徳だけは一命を助けられて讃岐へ流されます。346年ぶりに死刑を復活させて武士を処断した、後白河天皇の懐刀の藤原信西入道は、かつて天皇だった崇徳だけは死罪にしませんでした。これが前例になって、公家や武士は死罪になるが、天皇や元天皇は死罪にならないと言う、日本の独特ともいうべき不公平が定着します。

 

 崇徳にしてみれば、自分だけは死罪にならなかった有り難いと思うことはなく、天皇家に生れても、叔父子といって迫害され、実父で系図上は曾祖父の白河法皇によって一度は天皇になるものの実権はなく、鳥羽上皇によって退位させられたあとは実権のない上皇にされ、自分の子に天皇の位を譲ることも出来ないようにされてしまい、頼長に乗せられて挙兵したら敗れて讃岐に流され監禁される、こんな酷い人生はないということになます。

 

 崇徳は讃岐から自分が写した経を京に送りますが、後白河は呪詛を疑い突き返します。これは間接的な赦免嘆願なので呪詛を口実に拒否したのです。そのあとの崇徳院は怨念の人となり、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん、血をもって書き、死ぬまで爪や髪を伸ばし続け夜叉か天狗のようになったと伝わっています。

 

 平氏政権から鎌倉開府、承久の乱と、朝廷が衰微して行くと、朝廷の人たちはこれは崇徳天皇の祟りであると考えるようになります。