伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第69回 藤原信西入道  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

基本的に毎日の更新を目指します。コメントには出来る限り返信を付けます、ご遠慮なくコメントを入れてください。

 保元物語には、崇徳上皇方の源為義の息子の為朝が、夜討ちを提案すると頼長が口を出して、田舎の小戦ではない上皇と天皇が天下を争う合戦で行なうべきことではない、奈良から興福寺の宗徒も応援に来るから、それから戦いをやれば良いと、献策を退けてしまって、後白河天皇方は夜討ちという源義朝の意見を容れたのが勝敗の分かれ目となったと書かれています。

 

 もしも為朝の策を取り上げていたらどうなったのか、後白河天皇方も夜討ちに出ているのですから、路上での出会い頭の夜戦になったはずであり、後白河天皇方が600人を夜襲に出しているのに対して、崇徳上皇方は200人を出すのがやっとですから、崇徳上皇方の負けになっていたはずです。 

 

 奈良からの応援がやって来て兵力差が小さくなるまで、相手が待っていてくれるはずもなく、もしも睨み合いが続けば、義朝の子分の武士団が関東から、平清盛の子分の武士団が西国から京都に上って来ます。崇徳上皇方には地方から纏まった兵力を動員できる者はいませんから、いよいよ兵力差は大きくなります。

 

 義朝と清盛が後白河天皇方に行ってしまったことで、勝敗は決していたといえます。このように武者を集める策謀を誰がやったのか、藤原信西入道という者が後白河天皇の懐刀として登場して来ます。

 

 藤原氏といっても南家の出であったために、学問に優れていながら少納言で官位の昇進は止まってしまい、不遇を嘆いて出家していたのですが、廃れ皇子だった雅仁親王が突然天皇になったことにより世に出る機会が回って来ました。信西入道の妻が雅仁親王の乳母だった縁で新天皇に接近することができたのです。出家していますから官位の昇進は無理ですが、天皇の私的な側近として権力を持つことになりました。

 

 信西入道の出家には、頼長が「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」 との手紙を送って引き止めたという話が伝わっていて、頼長と信西入道はお互いの学識を評価していたようですが、保元の乱では敵対することになり、観念的で硬直した学問の頼長を、現実をよく認識して学問をやっていた信西入道が滅ぼすことになりました。

 

 信西入道は、後白河天皇方の黒幕として、孤立している頼長が、同じく叔父子として孤立している崇徳上皇と組むように仕向け、義朝と清盛が後白河天皇方に来るように工作しておいて、源氏を抱え込めば勝てるという錯覚を頼長と崇徳上皇に持たせて、クーデターを企画して兵を集めたところで、義朝と清盛を使ってこれを討つという筋書きを書いて、ほぼその通りに行ったのが保元の乱でした。

 

 当然ながら、保元の乱後の権力は信西入道に集中します、信西は従五位少納言という身分のまま後白河親政を主宰することになります。