伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第68回 保元の乱  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 右大臣で内覧を兼ねた藤原頼長は、始めのうちは学識で反論する者をやりこめて、朝廷の仕事を平安初期の状態に戻すのだとして、勢いが良かったのですが、朝廷で働く人たちの生活の現実を考えることなく、苛烈に仕事のやり方を変えるように命じたので、諸人の反発を買って朝廷のなかで孤立して行きます。

 

 崇徳上皇は、名目だけの父親、実際は甥の鳥羽上皇によって干されていて孤立していましたが、近衛天皇、鳥羽上皇が相次いで亡くなって、廃れ皇子の後白河天皇が即位したのを見て、今が憎い鳥羽上皇が作って行った朝廷の流れを変える機会だと考えます。孤立感を深めていた両者が手を握ったのです。

 

 今までですと、こういう場合には相手の失脚を狙って裏で画策するのですが、藤原頼長は真っ向からの理屈の人で、裏で陰謀を巡らせるのが苦手で、崇徳上皇は陰謀をやろうにも朝廷内に足場がありません。

 

 頼長には父親の先の関白藤原忠実が付いています、長年に渡って摂関家に従ってきた源氏は藤原忠実の指示があれば動く、都にいる源氏を動かして、武力で後白河天皇を退位させ、関白藤原忠通を追い落として、崇徳上皇の子の重仁親王を即位させ、崇徳上皇は治天の君として院政を行ない、頼長が関白になるというクーデターが計画されます。

 

 ところが頼みの源氏が、当主の源義朝が後白河天皇方に行ってしまい、最大の動員力を持つ平清盛も、摂津源氏の源頼政、足利氏の祖となる下野の源義康、源満仲が住んだ摂津多田荘を相伝する多田頼盛も後白河天皇方に行ってしまい、隠居になっていた源為義を口説き落として参加させるのがやっとで、あとは平忠正、平家弘、それに多田荘を巡って多田頼盛と対立していた源頼憲といった顔ぶれで、源氏や平家で主流になれなかった者たちが、あいつが後白河天皇方に行ったのだから、自分は崇徳上皇にするといった感情で参加したわけで、連れて来られる兵力は乏しいものでした。

 

 崇徳上皇と頼長が入った白河北殿は、人影も疎らで寒々としていたのに対して、後白河天皇がいた高松殿には雲霞の如くに軍勢が集まったと保元物語には書かれていますが、雲霞の如くというほどの人数は参加していません。清盛勢が300人、義朝勢が200人、義康勢が100人で、頼憲が留守を預かったとされていますから、他の参加者を合わせても、1000人未満であったようです。崇徳上皇方の軍勢は人数が記録されていませんが、圧倒的に劣勢だったのですから、200人から300人程度ではなかったかと思われます。

 

 天下を争うには余りにも少ない人数ですか、突然のクーデターで、子分になっている地方武士を動員する時間がなく、在京している身の回りにいる武者だけで合戦に望んだのでこのような人数になってしまったのです。

 

 義朝は若いころには鎌倉を本拠地として関東に勢力を扶植していたので、時間があれば纏まった人数を都に持って来ることができました。清盛は、表向きの父親の忠盛以来、西国の国司を歴任していたので、そこで子分にした者たちを都に連れて来る力を持っていました。為義は、京都での不祥事が多くて、国司にもなれず地方に出向くこともなかった人で、忠盛には完全に負けていて、息子の義朝よりも勢力は小さく、この為義が大将というだけで崇徳上皇方の軍勢はみすぼらしいものになっていました。