伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第67回 叔父子の怒り | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

基本的に毎日の更新を目指します。コメントには出来る限り返信を付けます、ご遠慮なくコメントを入れてください。

 保元の乱は、軍事力で政権を争ったものとしては、奈良時代の藤原仲麻呂の乱以来のものとなりました。平安時代は地方での反乱は幾つもありましたが、政権争いは朝廷のなかでの謀略戦であり、朝廷が非武装政策を取っていたこともあって、軍事力を使ってということはありませんでした。

 

 仲麻呂の乱が、お互いが政府の軍隊を奪い合ったのに対して、保元の乱は政府に軍事力がないので、地方の武装した農場主のなかで、都に常駐して地方の武装農場主たちの利害に基づく、天皇や院や摂関家への口利きを仕事にしていた者たちの武力によって戦われました。政府の公認の軍隊ではなく、私的な武装者を天皇や上皇や摂関家が使ったわけで、武士と呼ばれていた私的な武装者が支配者から公認されることになりました。

 

 保元の乱は既に亡くなっている白河法皇の乱行に起因した騒動であり、そこへ悪左府と呼ばれた藤原頼長の特異な性格が加わって合戦になりました。

 

 白河法皇が孫の鳥羽天皇の中宮に手を付けて、崇徳天皇を産ませたのが遠因であり、白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は院政の主催者として、叔父子と呼んで憎んでいた崇徳天皇を譲位させ、自分の実子の近衛天皇を3歳で即位させます。上皇となった崇徳にはなんの権限もなく、鳥羽上皇が院政を行なって圧倒的な権力を振るいますが、2歳で即位した近衛天皇は17歳で亡くなります。

 

 鳥羽上皇は崇徳上皇の子を天皇にはしたくないので、今様狂いの廃れ皇子と呼ばれていた雅仁親王を後白河天皇として即位させます。雅仁の長男の守仁親王を鳥羽上皇が養育していたので、守仁親王に継がせる含みもあって仕方なく即位させたのです。その直後に治天の君であった鳥羽上皇が亡くなります。

 

 あのような廃れ皇子を天皇に仕立てて、次の天皇は廃れ皇子の子と決めてしまった鳥羽上皇に対して、崇徳上皇はそこまで自分が憎いのか、叔父子として生まれたのは自分の責任ではないのにと激怒します。いくら怒っても鳥羽上皇の持つ権力には逆らえないので我慢していましたが、鳥羽が死んでくれたので機会が回ってきたと考えます。

 

 ここで、先の関白藤原忠実の三男藤原頼長が現れます。忠実は頼長を溺愛して、関白職に就いていた二男の忠通に、頼長に関白職を譲るように迫りますが忠通は拒否します。鳥羽上皇も忠通を支持したので関白職はそのままとなりますが、藤原一族の氏の長者は上皇の指図を仰ぐものではない自分の一存で決められるとして、氏の長者が相伝する、長者印と朱器と台盤を取り上げて頼長に与えてしまいます。

 

 頼長は忠実の押しで左大臣で内覧まで昇りますが、その性格は傲慢で独善で、日本一の大学生と言われるほどの学識を持ちながら朝廷内では嫌われていました。朝廷に仕える者は、なにごとも盛時のようなかたちで勤務するべきという考え方を持っていて、頼長には先例を熟知する学識があったので理屈で反論することは出来ない状態で自分の考えを押し付けました。

 

 他の者たちにしてみれば、朝廷の盛時には俸給が保証されていたから勤務に精励できたのだ、今は俸給が出ないから、勤務などはいい加減にやっておいて利権や役得を確保しなければ生活が出来ない、苦労知らずで育った頼長にはそんなことも分からないと言いたいのですが、頼長はお構いなしに自身の頑なな理想を押し通したのです。