仕事をしない政府 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第52回 仕事をしない政府 

 

 平安朝の朝廷は、刀伊の侵攻に対してもなにもせず、地元で奮戦した者への恩賞もケチって、刀伊の正体を突き止めることも、再度の侵攻に備えることもしませんでした。

 

 飢饉は起きても無視して、疫病は寺社に祈禱をやらせるだけでした。都大路に死体がごろごろ転がっているような状態になっても、朝廷はなにもしなかったのですから、ここまで来ると仕事をしない無責任体制は徹底していたといえます。

 

 やっていたことは権力争いと儀式だけですが、平安時代の貴族はそれが政治だと思っていました。天皇に娘を嫁がせて子どもを産ませる、子どもが出来たら早々に天皇を退位させて、幼児を天皇にして、自分は天皇の母の父親の資格で摂政となり権力を握る、この手間のかかる面倒臭い争いに懸命になっていたのです。

 

 政敵を暴力で倒すようなことはしません、死刑は行われておらず、政争で勝っても敗者を大宰府あたりに左遷するだけでした。権力を争う人たちが、これだけ非暴力に徹した時代は世界でも珍しいものです。人を殺せば祟るから殺さない、それが平安貴族の生き方でした。

 

 不堪田の奏という行事がありました。平安時代には9月7日に行われたので、古い季寄せでは秋の季語として登録されています、荒廃して使えなくなって田の面積を国司が太政官に報告して、太政官は減税や田の再開発などの処置を行う建前でしたが、不堪田の奏を行なう国が慣例で決まるようになり、儀式として奏上を行なうだけで、対策は一切行わなくなります。

 

 天皇の譲位、及び天皇・上皇・皇后の崩御のときに、内乱に備えて、鈴鹿関・不破関・愛発関に固関使を派遣する決まりがありました。平安期には政治的な意味はなくなり、誰が固関使を派遣する儀式を担当するか、式次第を間違えないようにするかばかりが注目されました。天皇の譲位や崩御は新天皇の擁立になりますから、新天皇を擁立した権力者が、誰を固関使を派遣する儀式の担当者にするのか、それが平安貴族の政治だったのです。

 

 儀式と人を殺さない政争しかしていなくても、政権が潰れることなく維持できたのは、軍備と大型公共事業を止めて、外国の争いにも関与しなかったので、労役と軍役がなくなって、庶民が負担が軽くなったからでした。