独身女性天皇 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第40回  孝謙天皇 

 

 聖武天皇には5人の子どもがいました。皇后の藤原光明子との間に、基王と阿倍内親王、側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王と安積親王と不破内親王がいました。

 

 2男3女で当時としてはふつうに子どもが出来ていたように見えますが、皇后の腹の男子で最優先の相続権を持っていた基王は、生後32日で皇太子に立てられます。皇太子が政治を見ることがふつうだったこの時代では異例の年齢であり、草壁、文武、聖武と続く流れからは絶対に皇位を外に出さないという意図が強く、無理に乳児を皇太子にしたのです。

 

 ところがこの基王が生後11ヶ月で亡くなってしまいます。男児としては側室の腹ですが安積親王がいましたが、聖武天皇は女性の阿倍内親王を皇太子に立てます。唯一の女性皇太子でした。皇太子になれなかった安積親王も17歳で亡くなります。草壁皇子、文武天皇、基王、安積親王と、持統天皇が強引に正嫡でこの血筋で行くと決めた草壁皇子の系統の男子が次々と亡くなるという事態になったわけです。

 

 女性天皇は、推古天皇から元明天皇までは皇后が即位したもので、次世代の男子の成長を待つまでの天皇でした。独身だった元正天皇は若死にした文武天皇の姉で、甥の首皇子の成長を待つまでの天皇でしたが皇太子になった阿倍内親王にはそういう男子はいないのです。

 

 どうして聖武天皇がそんなことをやったのか、独身の内親王を天皇にしてしまってあとはどうなるのか。独身女性の天皇は元正天皇一例だけであるから、この人を前例とする必要がないとして、天皇になった阿倍内親王が婿を取って、女系で繋いで行くという選択もあったはずです。奈良時代に、神武天皇のY染色体がと言い出す馬鹿はいませんから、聖武天皇が決断すれは可能でしたがそれは行われませんでした。

 

聖武天皇の譲位により即位しますが、このときに阿倍内親王は31歳でした。この時代の女性としてはしっかり中年であり、結婚をしないことは決定的になります。

 

 聖武天皇はさすがに先のことは考えていたようで、亡くなる直前に、道祖王を皇太子に立てるよう指示して行きます。道祖王は天武天皇の子の新田部親王の子で、新田部親王の母は中臣鎌足の娘であったので、持統天皇によって排除されることなく政界を泳いできた人で、阿倍内親王の母親の関係からしても穏当な後継者と言えました。