大仏建立 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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  伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第39回  大仏建立 

 

 聖武天皇の愚かさは、仏教を政治が支配してその道具にするのではなく、自分が仏教に救われようとしたところにあります。仏教への接し方が為政者としては逆なのです。身体が弱くて心も不安定だったので、仏教によって自分が救われようとしたのですが、もっと悪いのは、国家を治めるという天皇の仕事まで仏教に丸投げしてしまったのです。

 

 国家鎮護の仏教という考え方ですが、仏が国家を守ってくれる、だから天皇である自分は仏を崇めていれば良い、こんな大馬鹿野郎としか言いようがない思考に聖武天皇は陥っていました。実力で権力を奪い取った天智天皇や天武天皇とは違い、権力を継承できる唯一の男子として過保護に育てられ、なにひとつ努力をしないで巨大な権力を手にしたものの、それを維持してゆくだけの器量が無くて、国家のことを仏に任せてしまったのです。

 

 仏像は信仰の憑代ですから、人間の背丈くらいの大きさがあれば良く、それまでの仏像でも、後の世に造られる仏像でも概ねそのサイズでした。善光寺本尊は、前立本尊の中尊が1尺4寸で、脇侍が1尺ほどという小さいものですが、それでも絶大な信仰を集めています。仏像は大きければ良いというものではないのですが、聖武天皇は大仏に拘りました。

 

 高さ5丈という大きな仏を作れば、自分が政治を放棄していてもこの国を安泰にしてくれると考えたわけで、仏像に大きさを求めたのは政治家としての自信のなさの表れでもあり、心の不安定さを鎮めてくれるのではという期待もあったはずです。

 

 聖武天皇は、各国に国分寺、国分尼寺を作るように命じます。大仏造りに巨額の経費が掛かっているのに、地方にも寺院を作らせる、もの凄い浪費である上に、国家が寺を作ってしまえばそこに住む僧を食わせて行かねばならないので、財政に対する後年度負担も大きなものになりますが、聖武天皇はそんなことは考えていません。

 

 聖武天皇は、大仏造りを言い出す前に、山背国相楽郡に行き、恭仁京を作らせますが工事の途中で放り出して、近江国甲賀郡に行き、紫香楽京を作らせ、ここに大仏を造ると言い出しますが、朝廷の百官を挙げて反対したので、平城京に戻って大仏を造ることになります。遷都はもの凄い浪費で、恭仁京の紫香楽京も山の中で平地も少なく、首都機能を持たせることができる土地ではないので、国家の富の無駄遣いをやっただけです。そのあとの平城京における大仏造りですから、民衆の負担は酷いものになりました。

 

 大仏造りは古代に於ける偉業どころか、ノイローゼの権力者の妄執の産物であり、民衆を苦しめるだけのものであったのです。