聖武天皇  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第38回 聖武天皇 

  

 天皇家の近親婚ですが、蘇我氏の全盛時代は、蘇我氏の娘が天皇家に嫁ぐかたちで近親婚が繰り返されました。藤原氏の勢力が巨大化すると、藤原氏の娘が天皇家に嫁ぐかたちで近親婚が繰り返されます。

 

 大化の改新から聖武天皇までは、蘇我氏が衰退して藤原氏が勃興するまでの豪族の端境期で、天武天皇あたりで天皇の独裁が決定的になり、豪族との縁組がなくなり皇后は天皇家から出るようになります。天皇家のなかでも大化の改新というクーデターをやった天智天皇と天武天皇の血筋以外には渡さない方針だったので、叔父と姪、母親の妹といった、極端な近親婚になってきます。

 

 そこへ持統天皇の意志で、草壁皇子の血筋に天皇位を伝えるといった約束事が出来ています。天武天皇は壬申の乱後には大臣を置かなくなり、何事も皇后に相談したとされていて随分なやり手でした。天智天皇の娘ですが、夫と共に常に行動して、兄妹の大友皇子と敵対して攻め滅ぼしています。

 

 女性天皇の中では最大の傑物でした。自分になぞらえて天照大神を創作させ、天孫降臨の物語で孫への皇位継承を正当化するなど、日本神話を創作して利用しました。後世の人が有難がっている日本の神は、この人が作ったと思っておいた方が良いでしょう。

 

 草壁皇子と文武天皇が20代で死んだのも、聖武天皇が病弱だったのも、過度な近親婚の影響が考えられます。聖武天皇は精神的にも問題があったようで、中年以降は奈良を出て、紫香楽や恭仁を彷徨します。身体や心の弱さから逃避するために仏教に縋ります。

 

 それまでは天皇でも蘇我氏でも、統治のために仏教を利用する立場であり、それが政治というものです。政治を忘れて仏教にのめり込んだのは、蘇我馬子に実権があって見せかけだけの皇太子になっていた厩戸皇子くらいですが、政治の実権がないのでそれで民衆が困ることはなかったのですが、天武天皇のときに巨大化した天皇権力を持っている聖武天皇の仏教への傾倒は民衆を苦しめます。

 

 聖武天皇は草壁皇子の血筋を守ろうとした朝廷の期待の星でしたが、本人はその期待に圧し潰されるような身も心も脆弱な人だったのです。草壁皇子の聖なる血筋のために、諡号は文武、聖武と大変に良い名が贈られていますが、治績を見ると、文武は短命でなにもせず、聖武は仏教にのめり込んで国を傾け民衆を苦しめた人でした。