草壁皇子の血筋 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第37回  草壁皇子の血筋 

 

 奈良時代の最大の事件は大仏建立で、教科書などでは日本人による偉大な事業であると書いています。日本にもやっと先進国の建造物に匹敵するものが出来た、嬉しい、といった書き手の気分が伝わって来るような書き方なのですが、ノイローゼの天皇か始めたバカな事業というのが実際のところです。

 

 大仏造りを言い出した聖武天皇という人は、壬申の乱で勝って成立した天武政権が、皇位を継ぐべき正しい血筋としていた系譜の終りの方に存在しています。天武天皇と持統天皇のあいだに生まれた草壁皇子が正当な後継者とされていましたが、天皇の位に就かないまま27歳で死んでしまいます。のちに岡宮御宇天皇の称号が贈られています。

 

 草壁皇子には軽皇子がいましたが、草壁皇子が死んだときに10歳だったので直ぐに即位とはならず、15歳で即位しています。文武天皇ですがこの人も25歳で死んでしまい、7歳の首皇子が残されます。草壁皇子が即位しないまま亡くなっていますから、軽皇子は2世王になりふつうであれば相続権は弱くなるのですが、持統天皇が自分が産んだ草壁皇子の血筋が天皇家の聖なる血統と決めてしまったので、持統天皇から孫の軽皇子へという、祖母から孫への異例の天皇位の相続になります。

 

 この異例の相続を正当化するために、高千穂に降りた邇邇芸命を天照大神の孫にしたのではないかと言われています。

持統天皇から文武天皇へ相続したのですが、その人が若死にしてしまった、首皇子はまだ7歳で、天皇が政治を見るのが当たり前だったこの時代では即位は無理です。そこで、天智天皇の娘で草壁皇子の皇后だった阿閉皇女が元明天皇になります。草壁皇子の母親は天智天皇の娘の持統天皇ですから、母親の妹が息子の妻になっていたわけで、この辺りの近親結婚は無茶苦茶です。首皇子から見れば元明天皇は祖母です。

 

 元明天皇のあと、草壁皇子の長女だった氷高皇女が即位して元正天皇になります。そうして首皇子の成長を待ったのです。他にも皇族はいましたが、草壁皇子の血統で天皇位は独占する、他の皇族には渡さないという強い意志があったわけですが、その意志を嘲笑うかのように天は20代で草壁皇子と文武天皇を黄泉へと送ります。

 

 当初の予定では元明天皇のあと、孫の首皇子を立てるはずでしたが、病弱であったために、元正天皇で繋いでいて、首皇子が24歳のときに即位して聖武天皇になります。父も祖父も若死にしている、自分も病弱というなかで、聖武天皇の精神状態は不安定なものになりますが、草壁系で他に代わる男子がいないので皇位に据えられます。