漏刻 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第36回  漏刻 

 

 43年前に、飛鳥寺と飛鳥川の間の北側にある水落遺跡で漏刻の跡が発見されました。

 

 日本書紀には、斉明天皇6年(西暦660)年に、皇太子の中大兄皇子が漏刻を作って人々に時を知らせたと書かれていますが、どこにあったのかは書かれておらず場所は不明でしたが偶然にも発掘中に見つかりました。

 

 漏刻は水槽を幾つも階段状に重ねて、そこから落ちる水の量で時間を測る装置で、当時としては外国から入って来た最新鋭の装置でした。通貨の鋳造がコケたのと同じでこの水時計もコケます。

 

 時間を管理するのが天皇の権限だと中大兄皇子は考えました。暦で年や月日を管理したから、次は1日の時間を管理する、人々は天皇が定めた暦を使い、天皇が定めた時報を使って暮らす、それは天皇が民衆を支配している証でもあるとされていたわけです。

 

 漏刻には精密さが求められますから、版築によって基礎になる地面を堅固にすることから始まります、そこに水を通す樋や銅の配管を通して、階段状の基盤を作り、漆塗りの水槽を置くのですが、精密に作らねばならないので高い技術が必要で、製作には多額の費用がかかります。その上、水時計ですから、水を汲み上げねばならず、人手もかかります。

 

 江戸時代に行われていた日本の時法は不定時法で、日の出と日の入りを基準にしてそれを6等分していました、その時間を知るために、季節で一刻の長さを調節できる和時計を製造しましたか、漏刻には季節調整の機能などないので、定時法でした。日の出日の入りとは関係なく、1日を均等に12等分した時刻を刻んでいたのです。

 

 定時法は合理的で近代になれば定時法を使わなければ社会は運営できなくなりますが、照明が乏しく、日の出から活動を始めるといった暮らしをしていた人々にとっては、冬は真っ暗の中で仕事を始めねばならず、夏はまだ明るいのに1日の活動の終りとされる定時法が良かったのかどうか、生活感覚とは、ずれていたものと思われます。

 

 鐘を撞いたり太鼓を鳴らしたりして飛鳥のなかに刻を知らせて、役人に対しては、卯の刻に出勤せよと命令したのです。昼の午の刻で退庁だったようです。そうやって時間を管理して役所勤めをやらせるのが文明であると考えていました。中大兄皇子は時間の支配が好きだったようで、天皇になって近江京に移っても漏刻を作らせています。

 

 漏刻は費用対効果からすれば、製造と維持に費用と人手がかかるのに対して、そこから得られる利益は小さく権力者の自己満足でしかないものでした。律令国家に力があるうちは、平城京でも平安京でも作られましたが、そのうち消滅して、平安京の役人の勤務時間はぐだぐだになって行きます。漏刻は先進国を真似た意味のない装置でした。