墾田永年私財法 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第33回  墾田永年私財法 

 

 三世一身法、墾田永年私財法は教科書でもお目にかかるもので、覚えている人も多いものになっています。班田収受法の本格的な成立は大宝律令で制定されたときとされていますから、701年です。三世一身法は723年に公布されています。戸籍を調べての班田収受は6年に1度ですから、3回か4回やったら、土地が足りないという問題が深刻化したのです。最初の設計に問題があったと言わなければなりません。

 

 男子は2段、女子は1段120歩でも少なすぎるのに、それすら給付できないという問題は1回目から発生していて、それが僅かな回数で深刻化して行ったのです。一方で役人の手が足りないとか、土地の形状が整然としていないとかいった理由で、班田収受は行なわれず従来の家族単位の耕地をそのまま口分田にしたところもあったわけで、公的給付の口分田が小さくなると、そういったところとの不公平も大きくなってきます。さらに口分田が小さくなれば、農民の生活が成り立たなくなって、租税負担能力がなくなって、流民かする事態も起きて来ます。

 

 そこで開墾を促す方法として、自分で用水などを作って新田を作った場合には3代まで、既製の用水などを利用して新田を作った場合には1代に限って私有して良いとしたのです。

 

 743年には、墾田永年私財法が出されます。墾田は永久に私有として良いという法律です。三世一身法は20年しか持たなかったのです。20年ですから、3代目へ行く前に三世一身法は効力を失ったのです。今に比べると、情報が集まるのも遅く、政府の対応も遅い時代でこれですから、理念優先で現実にあっていない公地公民制と班田収受法の手直しが、いかに緊急の課題になっていたのかが分かります。

 

 三世一身法では、墾田も将来的には収公することになっていましたから、公地公民制の否定ではありませんが、墾田永年私財法になると、私有地の是認であり公地公民制の否定ですが、政府のなかで公地公民制などは無理だ、土地の私有を認めなければ農地は増えないという現実が認識されるようになっていました。

 

 死後に収公される土地を肥やしても仕方がない、開墾しても収公されるのであればやっても意味がない、誰もがそう考えますから農地は痩せ、開墾は行なわれなくなるのですが、理想に奔って公地公民制をやった人たちはそれに気がつかなかったのです。

 

 この場合に私有地は私領ではありませんから、墾田の所有者から租税を取り立てることができましたから、土地の民有制度に戻しても、政府の運営には支障はでないと認識されていました。

 

 以前はこの墾田永年私財法で律令国家が破綻したと言われていましたが、これは公地公民制の理想を評価し過ぎたことによるもので、土地が私有になっても、そこからの徴税が行なわれていれば律令国家の運営はできます、土地の私有によって生産意欲が増せば税収も増えますから、班田収受という無理な理想の手直しは律令国家を衰退させるものではありませんでした。律令国家を破綻させたのは、権力者の強欲に始まる荘園制です。