伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第32回 口分田
公地公民制の班田収授で渡される田を口分田と呼びました、男子は2段、女子は1段120歩で面積的に小さすぎます。被差別の人はもっと少なかったのですが、ここでは取りあげません。
班田収授という制度自体が虚構のものであるという側面もありました。実際には建て前通りの給付は困難で、多くの場合には土地が足りなくて、国単位で耕地面積を対象人口で割って給付可能な面積を算出しました。筑前国では男子には1段240歩の支給になったり、豊後国では1段118歩の支給に留まりました。規定通りでも足りないのに、それさえ満足に支給できなかったのです。
理想を追った制度はこんなものです。みんなに公平に口分田を支給するのは理想的な政策のように感じられますが、公平に分けた場合には、みんなに適正量が渡るのではなく、みんなが足りなくなってしまうのです。さらに日本の農業では、畑作でとれる麦や野菜、焼畑でとれる粟、稗、黍、大豆、蕎麦といった雑穀も重要な食糧でしたが、田が足りない国で畑地も給付したという記録がある以外は、どのような扱いになったのか分かりません。政府の関心は米のみにあったようで、租税にならない雑穀は無視されました。
人の暮らしや農耕の実態を押さえることなく、唐の制度を模倣して机の上で考えた制度だったので、こんな不都合が起きてきたのです。
実際に班田収受がどの程度実行されたのか疑問であるとされており、今でもよくありますが、モデル地区のような場所があって、そこだけで行なわれていた可能性もあります。
モデル地区以外では、農家が家族で耕していた土地を、そのままその家の家族の口分田ということにして、課税だけを行ない、家族が成人したら貸与して、亡くなったら返却させるような面倒で生産性のない行為は、多くの土地では行なわれなかったと考えた方がよいようです。農業の実際からして、家単位の耕地の所有の方が現実的なのです。
政府はモデル地区での功績を基礎に、全体に広げて行く計画でしたが、早い段階でモデル地区班田収授さえ崩れて行きます。
班田収受などといった虚構の理想など追わず、その時点で実際に耕作している農家が家単位で耕作権を持つことを、豪族の支配を排除して国家が保証するという制度にしておけば良かったのです。