公地公民班田収授 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第31回  公地公民班田収授

 

 子どものころに習った歴史の授業では、古墳時代は各地の豪族が民衆を私有して、その人たちを使役して自分のために古墳を作らせた、この時代に人口が多かった地域には古墳が残っている。大化の改新からその後の改革の到達点として律令体制になって、公地公民となって民衆が豪族に私有されることはなくなり、民衆には班田が国から与えられた。班田を受け取った民衆は租庸調の税を納めてそれで国家が運営された、となっていました。

 

 知らない者が聞けば、大化の改新で日本は良くなったのだな、それを断行したのは天皇の先祖なのだな、日本は天皇の先祖のお蔭で良い中央集権で、民衆に農地が与えられる国になったのだと思ってしまいます、そのように思わせるために教科書は書かれています。

 

 班田収授法では、6年に1回人口を調べて戸籍を作り、男子には2段、女子には1段120歩の耕地を国が貸し出すとなっていました。唐の均田制の真似をしたのですが、始めから無理な制度でした。

 

 夫婦で3段120歩の支給となりますが、米の収穫量が増えた江戸期でも、自作農の経営は最低でも1町歩なければ成り立たないとされており、5反百姓と言えば、農業だけでは食えない貧困層をさしました。米の収穫量が江戸時代の半分以下だった奈良時代に3段120歩では足りません。

 

 この制度は、人口調査、戸籍の作成、班田の割り振り、新成人への新たな支給、死亡者の土地の収公と、事務に大変に手間がかかる上に、担当者には高い事務能力と調整力が求められますが、地方にそのような能力のある役人が多数いるはずがありません。

 

 この制度は全国民が農民であるという前提ですが、農業経営を成立させるためには3段120歩の3倍くらいの農地が必要ですし、漁師、猟師、木地師、土師職、鍛冶屋といった人たちは、農業専業の者ほど広い耕地はいりません。唐からの資料を見て頭の中だけで設計したので、現実社会の職業の多様性も農業経営に必要な耕地面積も見落としていたのです。

 

 地域によっては耕地が少なく、焼畑をやっていたり、漁撈と兼業だったりするのですが、それも無視しているので、耕地が少ない地域に住む人の班田が、離れた耕地が多い地域に設定されることもありました。割り当てられた人にすれば離れた地域での耕作は困難です、耕地の多い地域の人にすれば昔から自分たちの耕地を、知らない離れたところの人に横取りされた感じになります。

 

 民衆の暮らしの実情を無視して機械的に班田収受を行なうのは暴挙であり、それを実行する事務能力もないというのが、理想的な制度のように言われている公地公民班田収授の現実でした。国家のレベルからして、背伸びした理念先行の現実無視の政策でした。