文学のジャンルの中に伝記がある。子どもの本では偉人伝などといわれ、学校図書館などでは、この「伝記」の占める率が高い学校も多い。もちろん伝記は一人の人間の生き様を描いたものであるから、こうした先人の人間性や偉業を知ることは大切だ。
たとえば、「子どもに愛されたナチュラリスト シートン」(今泉吉晴・福音館書店)などのような優れた本も多い。しかし子どもの伝記は「主人公が貧しい中、家族の愛につつまれて、艱難辛苦乗り越えて努力して努力して成功した・・・」というようなパターンの内容の本がなんと多いことだろうか。これは感動の強制である。皮肉的にいえば、主人公が誰であっても細部を代えれば、どの本にも通用するというわけである。
なぜこんな子どもの本の伝記を持ち出したかといえば、今おこなわれている平昌オリンピックの新聞やテレビの報道がこれにそっくりだと思うからである。そこには絆・愛・努力・・・という言葉があふれかえっているからである。ここでも読者や視聴者は感動の強制を強いられるのである。
ぼくも日本の選手がメダルを取れば素直にうれしいし、感動もする。だが、その感動や賞賛はあくまでも個人的なものであればよいのではないだろうか。それが自然でもある。思うに、今の報道は、やたら「日本」が強調され過ぎて、国民全員で感動し賞賛しなければならなよう強制されているように感じるのである。こんなに、やれメダルを何個とっただの、金メダルでも取ればそれ国民栄誉賞などとはしゃいでよいのだろうか?海外のメディアは自国の選手たちの活躍や、平昌オリンピックをどのように伝えているのだろう。
悪乗りしてはしゃぎまくる日本のメディアは、その影で「働き方改革」(労働者の低賃金化や長時間労働を意図している)「森友・家計問題」(安倍がお友達のために政治をゆがめた)そして「憲法改悪」などの重要な問題をもっと本気で報道すべきではないのか。
オリンピック報道に接して強く思う今日この頃である。