デカルトのこの言葉は、中世からの近代哲学の門を開いた。
といっても過言はないだろう。
このラテン語を「我思う、ゆえに我あり」とほとんどの人がこの訳に捉われている。
Cogitoはラテン語では動詞 (正しくは一人称の動詞)であり、そこには、「我」は直接は入り込んでいない。
「思う」、「考える」という動詞に過ぎないなのだ。
ergoは「したがって」とか「ゆえに」相当する。
sumは~ある で動詞。一人称単数の意味もこめている。
Cogito ergo sum は一人称の意味がこめられちるが、
直訳すれば「思う、ゆえにある」
この短い言葉に「自分」 のニュアンスはこめれれている。
「我思う ゆえに我あり」なんていうのは、
「我」の存在を前提にしているように思える。
私が思うから私がある。 なんておかしくね?
デカルトの言ったことを意訳してみた。
思っている何かがここにいる。
そうだ、それが自分だ。
ちょと脚色してみればわかりやすくなりますね。
僕自身は
感じる、ゆえに我(この意識)がある。
前に、意識の成立過程やら、「場」であり、「機能体」としての意識
について自分の行きついた成り行きを書いた。
最近。面白い本を見つけた。
僕が考え届いた世界とどう違うのか。読んでみよう。
この先生。「我感じる」としている。
「我」を初めから入れていちゃだめじゃん。
ちらっとページをめくってみたが、感覚の意識への働きを重視して
はいる。僕の考えた「意識の定義や意識の成立、意識の場と機能の両面性」に言及しているか愉しみだ。