まさかずのブログ -9ページ目

まさかずのブログ

何を見ても何かを思い出す。
小説・映画・法律・政治。

こんにちは。

最近「本物」について考えさせられる出来事がありまして、
多少の傷跡を残しつつ、
そのことばかりを考えている毎日です。


僕は長い間、正義や意思について
いくぶんか回り道ではあるものの
多少は”考えてきた”という自負のようなものがありました。

途中経過ではあるものの、
今の所は「自分の意思」以上に尊重すべきものは無い、
というのがおおまかな結論です。

一般的に「たしかなもの」とされていることを
まず疑うところから僕はスタートするのですが、
思うに国家や権威、経済や法といった
「たしかだと思われているもの」ほど疑わしいものはありません。

この帰納的な思考は
つまるところ自分の意思しか確かなものが無いということは
”コギト・エルゴ・スム=我思う故に我あり”という
もはや言い古された感のある言葉に集約されるのですが、
実際にはこのこと自体がそもそも疑わしくはあるのです。
ただ、それはこのブログでは書くことではないので、
「本物」とは何か、という話しにします。

まあ、先ほど疑わしいと書いておきながら
やや自己欺瞞的な言い方にはなるのですが、
本物=社会の安易な肯定である、とは思うのです。


郷に入っては郷に従えではありませんが、
知識がおぼつかない人間や、自分に同情する人間は
何も見えず、自分では行動ができない人間なので、
特定の社会に参入しようとした場合、
自己肯定的な思考というよりも
まずその社会を肯定することから始めます。

その社会で「本物」と信仰されているものは
彼の中で「たしかな」正義として価値づけられるのです。

社会というものが小さく、局所的であるほど、
排他的になるという性質は免れないので、
その社会で「本物でない」と謳われるものについては
徹底的な排斥が行われます。


こういった社会は豊かさとは真逆ではあるのですが、
おそらく、日本人の価値観の形成は、
内田樹の『日本辺境論』で論じられている
気味の悪い学習パターンでもあると思うのです。

つまり、日本人に限った話しではないけれども、
自己肯定にそぐわない「辺境」の人間は、
矮小な社会でサバイブする知恵として、
「本物」を信仰するのです。



というわけで、スペインの世界的なレストランである
エル・ブリのドキュメンタリー映画を観ました。
(ちなみにエル・ブリは2011年に閉店しました)

エル・ブリはエル・ブジとも発音するらしいのですが、
レアル・マドリードのカシージャスというゴールキーパーが
時折カシーリャスと発音されることがあって、
僕はエル・ブジもカシーリャスもなんだか馴染めない
「偽物」のような気がするので、
以降はエル・ブリという発音で統一します。
(某半島の統一くらい、厄介だがどうでも良いことです)


言ってしまえば特に説教臭くもない
”普通の”ドキュメンタリー映画で、
変わったお料理をする人たちがいて、
何だかお料理というよりも科学の実験をしているような
そんなレストランが開店するまでのルポです。
(エル・ブリは1年のうち、半年は新メニューの開発のため休業します)


だから有名レストランのドキュメンタリーとしては
お料理に興味の無い人はもちろん、
おそらく実際にそこで食事をした人にも、
何かを学んだり、役に立ったりはしないはずです。


ただ、僕が非常に感銘を受けたのは、
オーナーシェフのフェラン・アドリアが
スタッフの料理人たちに開店前に語った、
「君たちは調理をすればいい」という言葉でした。


先日、深夜の番組で「エル・ブリ」で働いたことがある
というシェフのお店が紹介されていたのですが、
彼は「エル・ブリはどうもお料理をしているわけではない」と思って退職し
バルセロナで自分のお店を持つことにしたそうです。

そういう人を日本のテレビは
「エル・ブリで働いたことがある人」というフレコミで
紹介し、タレントにそのお料理を食べさせて
「むっっちゃ美味しいやああ~~~ん」と言わせるのです。

その料理人の作っているお料理は
どうにもエル・ブリのお料理の亜流のようにしか見えなかったのですが、
それは置いといて、彼の番組内での扱いは、
「エル・ブリで働いたことのある人」という立ち位置です。


ただ、僕がドキュメンタリー映画を観て思ったのは、
カリスマであるフェラン・アドリアと
メニュー開発を行っている2、3人のシェフを除いて、
お店のシェフは「ただ調理をする人」のように思えました。


あまり自分でも良いたとえだとは思わないのですが、
「車のコンセプトを作った開発主査」と
「工場のラインでシートの取り付けをした作業員」は
「車を作る」点では一致するものの、
その意味は大きく異なります。

別にエル・ブリを辞めた人や工場の作業員を
どうこう思うことはなく、
その作業は完成に不可欠なものであることは
疑いの余地のないことではありますが、
意味合いが違う、ということだけを言いたかったのです。


話しをフェラン・アドリアに戻しますと、
彼は極めてストイックに、実直に
創造を求めて仕事をしていました。

すべてが彼の感覚で決定され、
その意向がお店の表現、コンセプトであり、
フェラン・アドリアの料理となるのです。

言ってみればフェラン・アドリアは中心であり、
その他は辺境の調理人ということになります。


中心である彼は圧倒的に自己を肯定しますが、
彼はあまりに圧倒的なので、
辺境の彼らはただ信仰し、従うしかないのです。

そういうわけで、僕はどちらかと言うと、
フェラン・アドリア側の人間になりたいと思いました。


中心になりたいというのとは少し違うけれど、
少なくとも盲信的に仕事をするのではなく、
自己を肯定して、創造する人間でありたいと思いました。


料理の創造性については
そうにもフェラン・アドリアほどの才能は持ち合わせていませんが、
少なくとも自分の創造に無感覚であることは
美しくはないのです。


フェラン・アドリアは映画の中で
「創造は日々の継続だ」と言っていましたが、
僕は継続が創造を生むというのとは少し違うと思います。

彼のお料理を創造する上での優先順位は、
美味いか不味いかは後で、
お客さんに新しい感覚を与えることのようです。

その動機が彼の創造を継続させているのだと思い、
スタッフへの言葉に説得力を持たせます。


だから、創造の動機としての自己肯定、
創造を継続するための他者への説得力。
僕はこの点で、今年観た映画で最も影響を受けた映画が、
「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」でした。


オークションで「この商品は正規品ですか」と尋ねることは
クリエイティヴではないですし、
他者への関与や説得力もゼロなのです。


「まるでバターのようなマーガリン」
「バター好きのためのマーガリン」

…自己を否定しつつ、じつに創造的な商品だなあ。


エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン [DVD]/角川書店

¥5,040
Amazon.co.jp