僕は映画を観て涙を流すということがないのですが、
それは主に、感情移入という感覚が理解できず、
映画の中でどんな悲劇が起こったり、大切な人が亡くなったり、
事実に基づいた感動の出来事であったりしても、
監督の演出があって、役者が演じていて、
カメラが回っていて、スクリーンで映写されているものなので、
映画の中の「出来事」や「感情」を共有することは得意ではありません。
だから、余命が何ヶ月かの花嫁の夫だとか、
南極に置き去りにされた犬だとか、
記憶がどんどん無くなっていく韓国人を観ても
さぞお辛いことがあったのねとは思いますが、
彼らor彼女たちと同じ気持ちにはなれないのです。
そういう映画が悪いとは思わないですし、
そういう映画を観て「泣く気持ち」が分からないでもないのですが、
僕が物語に求めているものが違うんだな、とは思うのです。
(犬と一緒に教会で死んでしまう少年はわりと好きです)
そもそも、他人と共有できる感情というのが
僕にはよく分からなくて、
喜怒哀楽で分けることができるほど
人間の感情はシンプルなものではないと思いますし、
誰かと共有できた時点で
それは自分固有の感情・意思の独立性・特殊性を失うものだと思います。
デカルトの
『省察』における「我思う故に我あり」という言葉はあまりに有名ですが、
「自分だけの感情」だけが人間が生きている意味で、
他人が介在する余地は一切認められない、
固有の存在意義だと思うのです。
そういう意味で、僕は映画の体験で
感情を共有して泣くということには懐疑的です。
ミヒャエル・ハネケと言えば「ファニーゲーム」と「白いリボン」なわけですが、
彼の映画はとくかく不快な感情を引き起こさせるもので、
他の映画や日常の生活では得られない
”あたらしい体験”です。
今まで生きてきた中で感じたことのない感情・知識、
知らなかった・想像もできない物語、
どこの世界でも見ることのできない表現をみると、
僕はその映画を観て、泣くことよりも重要な
体験を得た気がします。
たとえば「ファニーゲーム」で心が穏やかになったりすることは決して無く、
卵を借りにきたキチガイ二人組に怒ることは
僕の人生で一度もありませんでしたし、
映像の中から巻き戻しボタンを押されたことも
覚えている限りでは一度もありませんでした。
あんなにムカつくキチガイはちょっとその辺にはいませんし、
その絶望は「ファニーゲーム」固有の感情です。
つまり、映画イコールあたらしい体験が
僕が映画に求めるものです。
というわけで、「恋に落ちたシェイクスピア」の
男装したグウィネス・パルトロウを観て
髪の色を赤毛に変えたのですが、
その前日に観たのが、「愛、アムール」でした。
僕は映画のチラシに掲載されていた、
顔を掴まれた美人の老婆のシーンを観るだけで、
何となく心苦しいような感じを前からもっていて、
その映画がアカデミー賞の外国語映画賞を受賞して
監督がかのミヒャエル・ハネケだと知って、
ずっと楽しみにしていた映画でした。

ただ、その期待が大きかった分、
途中から残念な予感が首をもたげ始め、
映画が終わって漆黒のエンドロールをぼーっと見ている間、
何を観たのかほとんど忘れていました。
老老介護をモチーフにした映画で、
たしかに美しく気品があるおばさまが
意識と身体の自由を次第に失っていき、
ほとんど別人になった妻を夫が献身的に介護し
不安と行き詰まりを感じていく姿は
映画を観終わってしばらく胸が締め付けられる思いで、
劇場でも鬼哭啾々、気味の悪いすすり泣きが聞こえてきた訳ですが、
僕はひとり、何にも無い映画だったなあと残念に思っていました。
人がいずれ死ぬことは、僕でも知っていますし、
人生の終わりには色々と不全が起こることも知っている。
人生の終わりを迎えて苦しむ人がいることも知っているし、
その姿を見て、堪え難い悲しみを覚える親族・知人がいることも知っている。
僕はほとんど自立した意識を失った妻を見て、
病院で死に捉えられている僕の祖母を思い出しましたが、
自分の祖母以上には不憫にも思いませんでしたし、
意識を失いかけた祖母に僕がしようとしたようなことを
してやろうとは全く思いませんでした。
つまり、この映画にはあたらしいものが全くなかった!
愛のありようは人それぞれで、
相手と過ごしてきた時間や、培った絆は
代替不可能なのは当然でしょうし、
(代替可能な人もいるでしょうが…)
自分の介護体験に重ねて観る人も多数いると思いますが、
(僕は介護の経験がないという前提で)
映画を観て共感できるほど軽い体験ではないはずです。
だからと言って「愛、アムール」が面白くないとは思いませんが、
僕にとっては娘の濃い色のジャケットが可愛いとか、
フランスのお家は広くて白くて落ち着きがあっていいな、とか
あ、本棚にマトリョーシカが並べてある!とか
それくらいしか感情を持つことができない映画でした。
いや、泣く人も分かるし、夫婦の愛の絆だったり
老老介護の悲惨さや、教訓にすべきことはあるのだろうけれど、
僕にとっては需給に合わない映画でした。
それにしても、娘のエヴァ役で出演していた
イザベル・ユペール様は、非常に奇麗な方で
「ピアニスト」からの大ファンなのですが、
今現在60歳、「ピアニスト」の当時で40代後半と知って
僕は女性の年齢については盲目よりも視力が悪いとは自覚していたのですが、
あまりに衝撃的でした。
(実際、ピアニストで30代なかば、今も40代前半くらいだと思っていたのです…)
今はグウィネス・パルトロウの年齢を知ることが怖すぎて、
グーグルで検索するのもはばかられます。
ところで僕はいつもヤフーのレビュアーの一部の人たち
(見る価値がない、お金を出す価値がないという人たち、
脚本が悪いとかミスキャストだとか言う人たち)を
映画を鑑賞する人の中で最底辺に位置づけていたのですが、
この映画のレビューを見てみると、
まったく予想もしていなかったことを書いている人がいて、
びっくり驚くと同時に、そんな見方もあったのかと思って
もう一度観に行かなくちゃいけないと焦ってしまいました。
彼が言うには、この映画の夫婦は
はじめから逆転した物語で、
実際は夫が認知症になっていて、
すべて夫の妄想だった、よく見ればわかる!というものでした。
レビューをみた瞬間は、自分の映画の見方に信用がおけなくなって
「ファニーゲーム」とは別の絶望を味わったのですが、
よくよく考えてみると、僕はちょっと違うのかなと思って
町山智弘の映画評を聞いたり、検索をしまくったり
(特に鳩のシークエンスを)自分であらためて検討した結果、
それも一つの解釈なのだろうと冷静に考え直しました。
それにしても、凄いぞ、やるな、そいつ!
それから、僕が常々お説教をしたいと思っているのは、
「死」を安直に考えるな、と
映画に関しては強く思うのです。
誰かが死んで悲しいとかいうのは、
逆に言えば死ななければ物語が成立しないわけで、
「愛、アムール」のレビューでも
絶望して死ぬことは悲しい結末ではないという
シニカルともアナーキーとも言えないことを書いている人はいますが、
僕は死んだら全てが「無」だと思います。
だから、「死」は誰も体験したことの無い
まったく新しい体験で、
それをギミック的にツールとして扱うことも、軽々しい死で泣くことも
僕にとっては耐え難い軽さなのです。
あ、ちなみに死ぬことと、ぶっ殺すことはまったく異なっていて、
「ジャンゴ」で拳銃やダイナマイトで
悪い奴らが(悪くなくても)ぶっ殺されていくのは
たいへんに楽しい映画体験でした。
マーマー!!
ジャンゴ 繋がれざる者(監督:クエンティン・タランティーノ 主演:ジェイミー・フォックス、 ク.../作者不明

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