茂原理事長との会話から数日が経った。南辺の心には依然として不安がくすぶっていた。「口座の動きが多い」という指摘が耳に残っている。普段なら言葉少なに話すのだが、あの時はつい快活に応じてしまった。それが逆に理事長の目を引いたのではないか、と頭の中で反芻していた。
「今度こそ、完璧に隠さなければ」
南辺は、次に架空取引の計上を試した。実際には存在しない業者との取引を記録し、その支払いとして共益費や修繕積立金を横領するという方法だ。もし住民や理事会が取引の詳細を確認しようとしても、架空の業者名や工事名で帳簿を固めておけば、簡単に見破られることはないはずだ。
その日の夜、南辺はパソコンに向かい、架空取引の詳細を準備していた。彼が考えたのは「防犯カメラの設置」や「外壁の修繕工事」など、実際には行われていないが、住民が深く追及しそうにない項目だった。南辺は、こうした取引を数件帳簿に記載し、共益費からまとまった額を引き出す準備を整えた。
「これなら、誰にも怪しまれない」
南辺は、冷静さを取り戻しながらも、焦りからくる恐怖を抑えることができなかった。横領がもし露見すれば、全てが終わる。これまでの生活が一瞬にして崩壊するという考えが、常に彼の心の片隅にあった。しかし、南辺はもう引き返すことはできないと自覚していた。今さら止めたところで、すでに自分の行動は取り返しがつかない状況にまで至っていた。
翌日、理事会の定例会議が開かれた。会議の冒頭、茂原理事長がいつものように南辺に会計報告を求めた。南辺は、表情を崩すことなく、事前に準備しておいた報告書を取り出した。架空取引を含んだ帳簿が整然と並べられている。
「防犯カメラの設置や外壁の修繕工事で、今月は少しかかりましたが、これらは必要な支出です。来月以降の支払いも計画的に進めていますので、問題はありません。」
南辺の口調は、いたって冷静だった。茂原理事長は書類に目を通しながら、特に疑問を挟むことはなかったが、会計の細かい部分について質問を始めた。
「この防犯カメラの設置は、いつ実施されたんですか。」
一瞬、南辺に冷ややかな感覚が走った。しかし、彼は平静を装い、すぐに返答した。
「今月初旬です。業者からの報告も受けており、正常に作業が完了しています。」
南辺の返答に、理事長は軽くうなずき、次の議題に移った。南辺は、内心でほっと息をつきながらも、今後さらに気を引き締めなければならないと感じた。今まで通りに隠蔽工作が成功しているように見えたが、油断は禁物だった。理事長が些細な質問をしたことで、今後の追及が厳しくなる可能性も考えられた。
会議が終わった後、茂原理事長は南辺に近寄り、軽く声をかけた。
「会計のこと、南辺さんに任せておいて本当に助かってますよ。これからもお願いします」
南辺は表情を崩さず、軽く微笑み返した。
「ありがとうございます。引き続き、しっかりと管理させていただきます」
しかし、その言葉とは裏腹に、南辺には重い不安が押し寄せていた。理事長が自分を完全に信頼しているという状況が、今ではかえって彼を追い詰めていた。信頼にも応えなければならないというプレッシャーが、彼の行動をさらに深みに引き込んでいった。
