新しい年度になり、パールマンション富士見は新たな管理体制を整えることになった。 

 

臨時総会で選出された新しい理事に、蕨一太の名前もあった。就任を要請されたとき、蕨は一晩考えてから承諾した。やるべきことが目の前にあるのに、その場に立たない理由がなかった。逃げることと、関わらないことは、もう同じに見えた。

 

 新体制ではいくつかのルールが設けられた。通帳は理事長と監査役が別々に保管し、月次の残高確認を2名以上で行う。会計報告には必ず銀行発行の原本を添付し、全組合員がいつでも閲覧できるよう共有する。総会の議案は事前に全戸配布し、参加できない住民にはオンライン出席の環境を用意する。どれも当たり前のことばかりだった。しかし当たり前のことが守られていなかったから、八千二百万円が消えた。 

 

会議が終わった後、新しく監査役に就任した女性住民が、蕨に近づいてきた。以前の報告会で「私たちも被害者なのに」と声を上げていた人だった。 

 

「蕨さん、次の総会の資料、確認お願いできますか」 

 

手元には、管理組合会計の入門書があった。ページの端が折れ、付箋がいくつも貼られていた。会計の勉強を独学で始めたと聞いていた。8か月前には想像もできない姿だった。 

 

「わかりました。夜に確認します」

 

 蕨はそう答えた。 パールマンション富士見が、かつての信頼を取り戻すまでには、まだ時間がかかるだろう。損失の穴は埋まっていない。大規模修繕の見通しも立っていない。それでも蕨には一つだけ確かなことがあった。今の自分はこの場所のことを知っている。知ろうとした結果としてここに残っている。 

 

蕨は窓の外を見た。報告会で「総会、一度も出たことなかった」と言ったあの高齢の住民が、スーパーの袋を両手に下げてゆっくりと帰ってくるのが見えた。足取りが重そうだったがそれはいつも通りの夕方だった。 (終わり)