南辺会計担当理事はエントランスを通り抜け、いつも通りにマンションの会議室へと向かった。次の理事会が間近に迫っており、彼は再び会計報告を提出しなければならなかった。だが、最近の理事会の雰囲気に微妙な変化があったことに気づいていた。
 

「誰かが動いている」
 

そう感じながらも、彼は冷静を装っていた。南辺は普段から無口で目立たない性格だが、その外面を保つことで他者の疑念をかわしていた。しかし、今回ばかりは、心の中で広がる焦燥感を抑えることができなかった。

この数ヶ月、彼は巧妙に隠蔽工作を続けていた。電子データの改ざんを行い、複数の口座を開設して資金を分散させ、架空取引を計上して不正を隠蔽してきた。茂原理事長や木更会計監査役員とも、表向きは何の問題もなく業務を進めているように見えた。理事会の議事録や報告書は完璧に整えられ、住民たちも大きな関心を寄せていない。しかし、最近になって違和感が南辺の中に芽生えていた。

 

南辺は少し前に開かれたティーパーティーを思い出した。9階の住民、蕨一太が何度か修繕積立金について話題にしていたが、その時は特に危険を感じなかった。だが柏副理事長との立ち話のあと、蕨の動きが気になり始めた。住民の一人がこれほどまでに修繕費や管理費に関心を寄せるのは珍しいことだ。普通の住民なら、会計報告書にさえ目を通さないのが一般的だろう。

 

「蕨、あの男どこまで知っている」
 

南辺の胸に、じわじわと不安が広がる。彼が今まで隠し通してきたことが、蕨の目によって暴かれるかもしれない。だが、南辺はそれを絶対に許してはいけなかった。もし蕨が何かを掴んでいたとしても、彼を出し抜く方法を考えなければならない。

その夜、南辺はデスクに向かい、今までの報告書を見返しながら、次の隠蔽工作を考えた。蕨が理事会で何を質問してくるのかを予想し、その場で反論できるようにシナリオを準備していた。会計報告の資料を再度チェックし、どこに不自然さが残っているのかを徹底的に洗い出した。特に修繕積立金の動きについて、蕨が突いてくることは明白だった。

 

「修繕工事の詳細をもっと具体的に作り上げなければならない」
 

南辺は架空の工事業者を再び利用することにした。防犯カメラの設置や、外壁の補修などを詳細に記載し、その見積書を作成する。住民たちが細かい点まで確認しないことを見越して、南辺は巧妙に作り込んだ資料を完成させた。
 

「隠し通せる」
 

しかし、その言葉とは裏腹に、南辺の心の中は不安でいっぱいだった。会計報告書にミスはなく、数字は全て整っている。だが、もし蕨が事実を突き止めれば、その瞬間に全てが崩れる。南辺は次第に蕨を警戒し始めた。彼がこれまでに収集している情報がどれほどのものかは不明だが、いずれにせよ、彼を先回りして動かなくてはならないと感じていた。