自分でもそれを完全に理解しているわけでもなしに、エントリを書いてみるということはよくあります。
間違って指摘されることもあれば、他の人の似たようなエントリを読んで「そういう意見もあるよね」と妙に自分が清々といったことに対して恥ずかしさを覚えることもあります。
しかし、多くは知らない故に書けるというほうが多いような気もします。
本当に知っていることってナンダ・・・?
単に事実を並べて知っていることを書いてみるブログでさえ、本当に知っているという人は少ないでしょう。
多くの知っているという事実は誰かのコピーだったりもしますし、知らない故にオリジナルが生まれるということもあります。
知っているという定義もまたあいまいなもので、人によって意見が異なるものもあれば、深追いするときりが無いものもあり、その表面上の知識を学んだだけで知っているという人もいるでしょう。
これは紛れも無い事実だ!といって、あるシステムの真実を描いたとしても広い視点で見れば、そのシステム自体が正しいのかどうか、というところの議論が持ち上がったりもします。
結局のところ何が正しいかなんて誰もわからないままアウトプットしていくのかな、と思ったりもします。
知らないことをアウトプットしてみるというのは、間違いも多く含むでしょうけど自己の成長の過程で出てくるオリジナルの考えだったりもします。
その事実を正しく理解してないとブログかいちゃダメ、なんてルール作るとほとんどの人は何もかけなくなりますし、ネット上での議論ってそんなに活発に起きなくなり、ネット自体の有効性って薄れることになるのではなかろうかと思ったりします。
知らないから自分の意見を書いてみる。
それをdisられて得る新たな意見というものもあるでしょうし、知らないが故にあたかもそれが真理であるかのように振舞えて書くこともできたりします。
知らないことについて、あいまいな意見ばかりを述べていたら人は信じたり受け入れられたりしてくれません。
だまされても信じ込まされた方が理解しやすいですし、何が正しいのか自分で考えようなんてことを言うと、答えは永遠に見つかりませんし、人間どこかで線を引きたいものですから、勘違いでもそう悟ってしまったりもします。
この辺は、ネット上でのノイズを生み出す原因にもなったりしますが、結局のところ失敗を繰り返すことが真実に近づく一番の近道であるのかなと感じたりしますので、致し方ないという思いもあったりします。
今知っていることをアウトプットしてみるというテスト
「アウトプットの一環として活用するブログ 」にも書きましたが、知らないことを定期的にアウトプットしてみるのは、2つのことで意味があるのかな、と思っています。
1. 今知っていることを自分の頭の中で体系化してアウトプットできる
2. そのアウトプットの正否を他人の意見や事実と照らし合わせることができる
「知る」というのは自分の言葉で説明できるようになること、なんていわれた事ありますけど、とりあえずアウトプットを出しながら考えてみることが一番手っ取り早い方法だったりします。
そして、アウトプットを出すということは、答えあわせをできるということでもあります。
ブログであれば、コメントで間違いを指摘されたりもしますし、他人のエントリを読んでその考えの相違を知ることもできます。
知らないということは、イコール無知であるということ思われがちですけど、例えそれが1%であれ、ここまでは知っているんだということにもなると思うわけです。
だからそれは次のステップにつなげるためのマイルストンの1つだと考えれば、知らないことでも書くことができるのかなと。
まとめ
まぁ、そんな細かいことなんて気にしないでブログを書いてみるというのが一番楽な方法かもしれません。
知らないこと、知っていることなんて考え出すと気後れしたりもしますからね。
知らない故に書ける考えや勢いというものもあるかと思ったりします。
知らないということに臆することなく、知るために知らないことをブログに書いてみるということも意味があるのかな、と感じたりします。