人の多様性を認めてしまえば評価ってそれほど怖いものでもない気がする | A Day In The Boy's Life

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確かに評価って言葉はプラスの要素とマイナスの要素が含まれているので、一概にもらってうれしいものと言えるものではないですよね。

そしてその評価と言うのは、マイナス要素のほうが表面化しやすい。

それは、誰でも人のプラス要素を見つけるよりマイナス要素を見つける方がたやすいからでしょう。



評価する/される意味


じゃあ、評価って何なのさ、って疑問に思うことがあります。

人はなぜ人を評価するのか、したがるのか。

これは、評価と言う言葉がプラスとマイナスの意味を持っているように、評価すること自体にも常に相反する要素が含まれてるんだと思います。


・ 自分に持ち得ないもの持っている人への感謝(プラス面)

・ 自分に持ち得ないものを持っている人へのねたみ(マイナス面)


・ そこにあるものを広めたい(プラス面)

・ そこにあるものを蹴落としたい(マイナス面)


・ 周りと同調したい(プラス面 / マイナス面)


それをすごいと思い、他にも広めたいと言うプラスのベクトルで評価する一方で、「そんな当たり前のことだよ」とか「間違ったことは広めるべきではない」と言うマイナスのベクトルで評価する人もいるわけです。


こう2つの側面があれば、それを評する場に放り込まれると絶対に2つに分かれます。

誰もが一方の評価に偏ると言うことは無いでしょう。

地球存亡論で評論しあっても、「地球は滅亡すべき」なんてこと言い出す人は絶対出ます。


それは、人それぞれ持ちえる感性や人の多様性を表しているだけのことの気もします。

その多様性というのを意識していれば、評価と言うのはそこまで怖く感じることもないような気がします。

「この人」にとっては、そんな評価になったんだなと。


評価ってその天秤でどちらか一方に少し傾いた結果だけであると思うわけです。

ただ、それをあたかも評価と言うものがマイナス面にしかないように感じている人もいるような気がします。



評価されて気づくこと


誰かを評価すると言うことは簡単にできるものです。

明るく行動的な子をみて、プラス面に評価したければ「積極性がある」と言えばよく、マイナス面に評価したければ「でしゃばりすぎ」とでも言えばいいのでしょう。

ただ、自分の評価を知らずに相手を評価することに意味はあるのかなと思います。

あの子のことを「でしゃばり」と評した自分は、周りからみてどうなのかとか。


感謝の言葉に含まれる自分への意識とプレッシャー 」に書いたように、評価されるってことはプレッシャーに感じることもあります。

感謝されるというが次への期待を感じてしまい、それをプラスのパワーへ変えられないとか。

だから、評価されることを逃げた方が楽だろうとか。


客観的な評価と言うのは、自分に持ち得ない視点を与えてくれるのですごく価値のあるものだと思います。

自分が変わりたいと思うなら、自分の中で考えるより、他人に聞いたほうが手っ取り早いアイデアを得られると思います。

自分の顔を自分の目で直に見ることはできませんが、他人と言う存在は見てくれます。

それは、自分と言う存在を別の視点から見つめてくれているということになるでしょう。

例えそれがマイナスのものであっても、評価されて気づくことって総じてマイナスにだけなりえるものではないんだなと思います。


人は人を評価したがるものなので、そこは仕方ありません。

ただ、その人の存在の多様性というものを意識しておけばよいのかなと思います。

そういう人もいるんだぐらいに。

そうやって、相手の存在をある一線で認めることができてしまえば、もっと健全な議論もできると感じます。


そう考えることで、自分がどう表現しようが「世の中には自分みたいな考えを持ってる人もいるんだよ」そういいきってしまえるのではないでしょうか。