論理思考が完全にできないところが人間らしさじゃないかな | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス @ WIRED VISION


頭の中では、そうするだろうと考えても実際にそうなったら「何もできない」というのが本当のところなのでしょうね。

なので、トロッコは最初からポイントが向いている方向にそのまま進むことになるでしょうし、橋の上からもただただ見過ごすしかできないというのが実際のところではないかと。

人間心理を観察するための実験なので、それを言っちゃお終いなのでしょうけど。


もし冷静に考える時間が与えられるなら、どちらがメリットがあるのかということを考えてしまうかもしれません。

一人の犠牲が恋人というのであれば、そちらを救う心情に駆られるでしょうし、著名人ならその後の恩をきせることができると考える人もいるかもしれません。

究極の状況下では人間が論理的に行動できる余地は著しく低いと思います。


以前に少し似たような事を考えた事がありました。

仕事で少し思い悩んでいたんですが、自分としては自信を少し過剰に持ち始めていて、もっと大きな仕事がやりたいという心情に浸っていました。

何でこんな小さなプロジェクトで、経験の浅いメンバーの面倒を見つつ仕事をしなきゃならないんだろうって。

大きな仕事って何だ、と漠然に考えてみた時に会社にとっては大きな利益になる事で、世の中的に見れば広く自分のアイデアの種が広まり芽を出す事と考えていましたので、自分のやってる事がひどくちっぽけに思えてきてしまったわけです。

でも、少し考えてみたらそのメンバーも自分のことを頼りにしてくれていましたし、そこで自分がする仕事の価値って何も世の中に与える影響の大きさじゃないんだなぁと感じたりもしました。


そこでも、例えばそのメンバーを途中で見捨てて自分の新しい道を進むということも考えられたわけですが、そうはしませんでした。

自分も今の環境で育ててもらった経緯を辿ってきているわけですから、その時より成長した自分はそれを受け入れるべきでしょうし、その環境や先輩・上司に恩返しもできるだろうと。


私は、自分の存在価値ってやつは他人から見てどれだけのメリットがあるか(与えているか)だと考えています。

例えそこに打算が含まれていても、自分を必要とする人がいるなら、自分の価値はあるだろうと。

プロジェクトのメンバーが自分を頼ってくれている、上司がそれを任せてくれている、そう思うと自分がそこにいる価値というものを少し感じ取る事ができたわけです。


これは、論理的思考ではないのだろうと思います。

自分がより大きな成長のチャンスがあるならそこに飛び込んで見るべきでしょうし、私がいてもいなくても少なくともそのメンバーはなんとかプロジェクトを進めることができたのだろうとは思います。


頭の中では漠然とそう割り切るべきと考えている事はあります。

これは無駄だからやるべきではないとか、自分の知識と経験からしてこれは正しいはずだとか、そんな思考も持っていたりもします。

ビジネスの現場であれば、そういう思考が重要な事はよくわかります。

しかしながら、幾つかの要因がそうさせない心情にさせてしまうことは、人間の心がそれに反応するような仕組みになっているからなんでしょう。

特に、そこに人というものがはっきりと見えてしまうとなお更です。

トロッコ問題もそこに人がはっきりと見えてしまう事で、思考が揺らぐのだと思います。

まぁ、それが人間らしさという奴ではないかと思ったりもしますが。