無限のIFの中に・・・ | A Day In The Boy's Life

A Day In The Boy's Life

とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

私たちは身を沈めています。

1秒1秒過ぎていく全てが分岐点です。

あの角を曲がらずにまっすぐ行けば・・・、友達から来た電話を取らなければ・・・、昨日の2次会の誘いを断っておけば・・・。

私たちは全て意識・無意識に関わらず取捨選択をして生きています。


何かというと、ここ最近ネットで話題になっているマッチョ論に関連した記事を読んで感じたことなんですが、私は世間から見れば当然非マッチョ組(ウィンプ)に属するする人間です。

が、そこまで困った事に遭遇した事は無い。

仕事運がある方なのか、そんな事を気にしている暇は無いという弱者の強がりか、はたまたそれをあまり感じない鈍感さがあるからか・・・。

私には、そういった人を助けるための経済論などを語る言葉は持ち合わせていませんが、それを故にそれを乗りきるための小手先のテクニックは身に付けようと努力しています。

難しい事はわからないのだから仕方が無い、でも自分に火の粉が降ってきたときに、せめてどうやって逃げればよいのか・生き残れば良いのかという思いは常々あります。

これは弱者ゆえの弱者の考えである事は承知しています。

で、その中で感じているのが表題の条件分岐を意識するということです。

映画「MATRIX REVOLUTIONS」の中で、メロビンジアンというフランス人の格好をしたプログラムが、世の中の全てには原因と結果があるといっていたことを覚えていますが、それは正しい表現だと思います。

ただし、世の中はそれほど単純ではすまないため、どれが原因だったかなんて特定する事は不可能。

プログラムの世界ならはっきりとした原因を特定する事はたやすい事ですが、人間世界ではそんな事をすることは無理難題と言うものです。


例えば、自分がブラック企業に入社してしまったとして、その要因を辿っていくと


1. 他の企業からも内定がもらえていたが、そのブラック企業の方が(外面からは)安定感があると感じた

2. 採用試験のときに話した担当者がとても好印象だったから

3. その企業からしか内定がもらえなかったから


などと様々です。

1.2.の場合、企業の内情などいくらネットで調べたところで当人の偏見が盛り込まれているため、実際には自分で体験してみないと分からないわけですし、幾らその後に後悔したからといっても、ブラック企業にも少しは尊敬できる人がいるでしょうから、そういう人がいる部署に配属されなかったのは運が悪かったとい言えるかもしれません。

ただ、これは外面からその企業に未来を感じた情報に出会ってしまった原因と、そこから自分がここにしよう!と決めた判断による結果です。


3.の場合においても、希望の企業に落ちたのはほんの少し原因が不運な結果に結びついただけかもしれません。

採用なんて、人気企業は物凄い数の就職希望者が応募してくるわけで、真面目に履歴書を読んでいるとは思えないところもあります。

採用担当者が履歴書を見てみて、自分の顔写真がお気に入りじゃなかったからというだけの理由で1次試験が終了と言うこともあります。

ですが、別の採用担当者が見れば、少なくとも1次試験は通過したかもしれません。

そして、その要因は自分が履歴書を送る日にちを1日早くしただけでよかったのかもしれません。

これは、その後の配属決定時にも言えることです。


私が就職活動をしたのは1999年で、就職氷河期の中にいました。

私は、ゲーム業界に就職する事を希望していましたが、どこもろくにプログラミングができない私を採用してくれるところはありませんでした。

ただこれも、ろくに勉強をせずに希望だけを持っていた自分に原因があり、それ相応の結果となったことをは、誰が見ても明らかだったと思います。

ゲーム業界を諦めるしかなかった私は、元々プログラミングで飯が食っていければよいという想いから、次はIT業界全般をターゲットにしたのですが、そこで一番初めに内定を貰った今の企業に勤めています。

その後、就職活動を続けようとしなかった事が今の企業にいる原因であって、今の私はその結果です。


就職して初めて通された部屋はまるで大学の研究室か?という感じの小汚い小部屋でしたが、私は心は躍っていました。

それまで私の社会人というイメージはテレビドラマであるような清潔に保たれたオフィス、机の一つ一つに並べられた高性能なパソコン、スーツを着て小難しい顔をした大人たちが、これまた小難しい用語をホワイトボードに並べた会議室という感じです。

それとは正反対の部屋に通されても心が躍ったのは、どちらかと言うと細々として和気藹々と仕事ができる環境の方が自分に合っていると感じていたからです。


しかし、その環境の中で同期の何人かは辞めていきました。

私にはあっていると感じてもその人にはあっていなかったのでしょう。

その原因は、その人たちを退職と言う結果に結びつけました。

しかし、その原因は私の場合、良い方向に転び今もその場所に納まっているという結果に至っています。


確かに、運・不運はあると思いますが、人はそれが良い方向に転べば運が良かったと良い、悪い方向に転べば運が無かったと言います。

人はそれぞれの考えを持っていますので感じ方も千差万別ですが、同じ環境で働いてきた私は運が良いと感じ、一部の人は運が悪いと感じていただけだと思います。


我々はエスパーでは無いので、未来の事は何も見えません。

だから、そのとき行動した原因は単なるその日の気分や周りの複雑な要素によって半ば強制的に導かれたものだと感じてしまいます。

それは確かにそうです。道を曲がるか否かなんて気分の問題だったり、何時も通っている道であればその判断を逆らう理由もありません。

しかし、少なくともその原因によって起きた不運でも選択した不運と捉えれば、前向きになれるのではないでしょうか。

不運とだけ取ると、それを何かに押し付けたくなりますが、自分がとった原因による不運と考えればそれは自分で消化するしかありません。


原因が複雑で分からないのであれば、それを単純化して一つずつ消化していくしかありません。

しかし選択に迫られた時、その選択肢を単純化しすぎて考える場合が無いでしょうか。

つまり、AかBか、またAかそれ以外か。

実際にはCもDもZもという選択肢はあるはずです。

あまりに選択肢を広げすぎると何も行動ができませんが、少なくとも2択が頭に浮かんだのであれば、もう一つの

選択肢を見つけてみるということ行動はとって見る必要があると思います。

「たたかう」か「まもる」かの選択肢(コマンド)だけではありません。

時には「にげる」というコマンドも有効に働く場合があります。


流されそうな毎日の中で降り注ぐ選択の繰り返しの中で、自分が行動を選択しそれが原因で今日一日がハッピーだったと思える日が過ごせたなら、それは凄く幸せな1日では無いでしょうか。