この疑問だけに対する私の考え方としては、「いや、昔から人間同士は大部分で、取り留めの無いことを話しているのでは」と言う事。
友達同士で話す事って、何気ないその場にいる人同士だけにしか理解できないような事だったし、Twitterにあげられているような、「眠い」とか「暇だ」とか「おなかすいた」なんて誰かに訴えかけても仕方が無いことというのは友達同士がリアルに合っても取り交わされる会話です。
私は心理学を学んでいるわけではないので、人間の行動心理について詳しく分かっているなんてことはありませんが、単純に複数人の親しい人がいても取り交わす取り留めの無い会話は、一人の場合は独り言となり、ネットにつながる環境があればそれが、今ではあちら側の世界に発信されているだけの事ではないかと。
つまり、書き込み自体が独り言。
何時でも何処でもどんなものでも人と人はコミュニケーションを取れるようにはなりましたが、その利便性が返って人と人を結ぶ敷居を高くしてしまっているとも感じます。
いつでもつながれるんだから、今は良いやと言う具合に。
でも、誰かに何かを言いたい。独り言ではつまらない。
打てば必ず返って来るあちら側の世界に向けて発信してみるかと。
ネットの世界は、リアルな世界で誰かに声をかけるよりずっと敷居が低くコミュニケーションを取る事が可能です。
このPCの向こう側にいる人を知っていようが知っていまいがお構いなしにやり取りをすることができる。
私は大学までを関西で過ごしましたが、関西ではどんなに取り留めの無いくだらない事を言ってもツッコミが返って来る文化があります。
もちろんその中にはさめた「おもんな」などの言葉もありますが、そんなどうしようもない反応でも、投げたボールが必ず返って来る心地よさというものは自分も感じています。
その心地よさを求める人が多いのではないでしょうか。
先ほど書いた、ネットの世界の敷居の低さで誰かが反応してくれる、その反応自体を求めているのではと感じます。
この敷居の違いって、私自身も日常で凄く感じているところで、お昼にどこぞの食堂に入り、A定食にするかB定食にするか悩んでいた場合、それをあちら側に「A定食とB定食どっちが良いと思う?」ってどうでも良い事を書き込んだら、「俺の今の感じだとA」とかこれまた何の根拠の無い答えが返って来る可能性は高いです。
ですが、リアルの世界でメニューを見ながら多いに悩んでる姿を見せたところで声をかけてくれる人は皆無です。
声を出して「AかBか悩むな~」って言ったところでもその可能性はさほど変化がありません。
しいて言えば、食堂のおばちゃんが声をかけてくれるぐらい。
この反応のよさ、その心地よさというのを求めたい気持ちは私はなんとなく分かるのですが。