岡谷繁実の戦後会津に関する実歴談 | 大山格のブログ

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実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。



 写真は『名将言行録』の著者として名高い岡谷繁実の肖像である。おそらく晩年のものであろう。なで肩が身体の衰えを感じさせるが背筋は伸びており、全体の印象は、俗世間に下ってきた仙人とでもいうような神々しさを感じさせる。
 明治一九年以後、晩年に至るまで繁実は研究機関に属さない在野の歴史家であった。明治二五年からは史談会の幹事をつとめている。史談会は明治維新を体験した人々の談話を速記で記録した『史談会速記録』を定期的に刊行していた。
 繁実が没した翌年にあたる大正九年六月に出た「第三百四輯」には、いつもは聞き役をつとめていた繁実が、自身で語った談話が掲載されている。それが「故岡谷繁実君の戦争後の会津に関する実歴談」である。

今日は演説者が差支でござりまして、私は腹稿も何もござりませぬが、御維新前の会津の事をお話申します、会津の戦争中の事は存じませぬが、明治元年の九月会津が落城をいたしまして、さて落城いたしました後の始末と云ふものは取敢へずの所は加州でござりますの上杉でござりますの其他近傍の諸藩の兵隊が仮りに民政を預つて居りまして、これは軍人が預つて居るのでござりますから、今日の史談会副総裁の東久世伯が会津に出張を命ぜられました

 どうやら予定していた談話者が来られなくなり、急遽代役として繁実の談話を記録することになったらしい。メモ魔の繁実だが、この場は記憶のみを頼っている。
 加州は加賀藩、上杉は米沢藩を意味しており、東久世伯は東久世通禧(みちとみ)で、出張とは計画倒れに終わった奥羽巡察使のことを意味している。繁実の談話を記録した時期は不明ながら、東久世が存命のうちであるらしいことがわかる。東久世の歿年は明治四五年。

ところが如何なる差支でござりましたか御病気と云ふことで東久世伯は御免になつて、其次に阿野中納言、此人も一時御請合があつたが辞退になり、それから新五郎これも辞退でござります、それから平松甲斐権之介此の人も辞退し、それから松越衛此れも命ぜられて、辞退、それから林英次郎これも命ぜられて、辞退、それから失念しましたが三原の人でこれも辞退、明治元年の九月より会津に出張を命ぜられたものが七人まで辞退、それ故に或は一月或は二十日と云ふので、其実会津へ行くが嫌やで御辞退、会津は抛り投げです

 東久世までが辞退したほどかと改めて思わせられる。いわゆる七卿落ちの一人であり、岩倉具視に「貴下権勢を貪り百事専断多し」などと戊辰戦争中に直言したほど度胸が良い。明治二年には箱館裁判所総督として北海道へ渡り、引き続き開拓使長官をつとめたので、「御病気」とは思えない。この人が辞退したとなれば引き受け手はなかなかあるまい。

命令があつても長官が行く者がない、それで明治二年の六月まで抛り投げ、長官が代るどころでない、行かぬ、政府では御急ぎになり、会津を棄てゝ置くと云ふことにいかぬと云ふので、四條隆平あの人は越後の総督をして居たが、それを御罷めになつて、東京に居らるゝ時で、此四條に命ぜられた

 四條の兄で養父でもある隆謌(たかうた)は七卿落ちの一人で、隆平も公家としては行動力が旺盛な人物であった。繁実は敬称を略すことが多く、縁浅からぬ四條も呼び捨てにしている。

それで四條と云ふ人が御請けになつて、私は其前法制官で居りましたが、四條に随行して参る様に命を蒙りました、四條は奥羽巡察使と云ふ名義で、私は判事で随行して参る様にと云ふことで、明治二年の六月に会津に参りました

 奥羽巡察使は岩代国巡察使の誤りで、さすがにメモがなくては記憶違いも仕方ない。

参つたところが名状すべからざる話で、第一に本当の金と云ふものは一つもない、残らず贋金である、これはドウした事であらう、贋金と云ふものは旧幕時代から通用のならぬは極つて居る、如何とも仕様がない、贋金を通用した者を召捕る時は皆召捕らねばならぬ、本当の金を使つた者を押へる方が早い、ドウしたものであらう

 晩年に至っても、会津に関して真っ先に繁実の脳裏に浮かぶのは贋金のことであった。それだけ対策に苦しめられた問題なのであろう。

四條は先づ贋金通用はならぬと云ふ布告を出した、ところが何にもならぬ、正金は一金もない、ドウいふ訳でさう贋金があると申しますと、刀剣が廃たる時銀坐の者を連れて行つて城内に於て始め金銀を鋳造致した、其の金銀を見ると一分銀である、其の一分銀を叩き延ばして三つに切り、さうして二分銀の型があつたものと見えて切つたのを二分銀に拵へる、銀の一分が一両二分になる、それに天麩羅を掛けたものである

 刀剣が廃たる時とは、輸入銃砲が必要になった時期という意味にとれる。二分銀は二分金の誤り。おそらく速記者が聞き間違えている。そして繁実の没後に刊行されていることからすると、繁実が校正する機会はなかったろう。天麩羅とは、贋金の表面に金箔を定着させる工程で、天麩羅のように油で揚げたことをいう。

これはまだ宜いのである、一分が一両二分になるから金が殖へた、ところが軍備が容易でない、拵へても拵へても足らぬ、銀が尽きて銅の天麩羅、イヤ金麩羅にした、それで私が参つた時は、金を何百両持つて居るの、何両持つて居るのとは言はぬ、金を何升持つて居るの、何斗持つて居るのと云ふ、金を枡で量る、銀ならばまだ宜いが銅である、彼処には何升持つて居るの、何斗持つて居ると云ふ、これは堪らぬ話で、それに従つて物価の騰貴は法外なものである、其頃東京では今の一銭に十個いたした卵、それが会津に行くと三百五十文と云ふ、それに従つて諸品の高いことは法外、先づ桃の宜いのなどが二つもあると一分二朱といふ、銅金であるから仕やうがない、一度仲間会で酒を飲むと五六十円入る、ところが銅、三人も寄ると百五十円貳百円の会費である

 枡で量るとか、卵が三五〇文などのあたりは『会津事情』でも出てくる。後年の談話は当時の記録で裏付けないと信頼できないものだが、繁実は記憶力が優れていると見える。「酒を飲むと五六十円入る」の「入る」はイルではなかろうか。本来は「要る」と表記すべきで、速記から原稿を起こす際の過ちであろう。

贋金も初めは城内で窃かにやつたが仕舞には城外でやり、彼方でもやり此方でもやり殆んど二百万円も出来た、仕舞に巡察使が参つて厳しく命令が出て市中で拵へることは出来ぬやうになつた、

 二百万円の根拠は不明であるが、明治三年七月に若松県下で正金と引き換えられた額は一七万七八五八両(「明治初年の贋悪貨幣問題と新政権」松尾正人)という。

御城は遺つて居り市中も二三町遺つて居る切りで後とは残らず兵燹に罹つて居る、古人の言ふ大戦の下、野に生草なしと云ふは是を言つたものかと思ひました。
 士の屋敷などは一本も残つた木はない、何ともかとも名状すべからざるものである、それ位であるから贋金どころでない、社稷の滅亡に至るのであるから、銅でも何でも百両に就いて一割とか二分とかの税を出せば誰でも贋金が出来る、仕舞には巡察使が喧しく言つたと云ふので、磐梯山の近所へ行くと藩士が兵隊の鉄砲を持つて調べに来る奴は打払ふと構えて居る


 贋金づくりの脱走もしくは潜伏旧藩士が鉄砲を持っているのは、両軍の戦死者の銃など遺棄されたものが回収されたものかと思われる。

それを巡察使が徐々にならぬと云ふこと触れましたが、贋金は昔の律にせよ今日にせよ死刑に極まつたものである、会津の贋金を拵へた者を斬れば会津の者は残らず斬らねばならぬ、それより贋金を使わぬものを捕へる方が早い、それで布告を出した日を界にして、布告前のものは無罪、其後は首を斬ると云ふことで、毎日拷問に上げる者が十人十五人とある、何ともお話にならぬ位で、一番困つたは贋金でござりました

 まわってきた贋金を使うことは『会津事情』によると事実上の黙認であったはず。拷問に上げたというのは贋金の製造に限ってであろう。「一番困つたは贋金」と聞けば、やはりと思える。

さういふ次第であるから四條の所へ夜中鉄砲を撃つ、私の居た所は薩摩屋と言つたが後ろからは度々鉄砲を撃つ、これは脱走兵が撃ちましたのでござります、何様取締りをしても脱走兵が多うござりますので会津の村々に預けて置いたものが三千幾らか居りました、それは榊原や其他諸藩に預けた他である

 村預けというのは、諸藩に預けたのではないとすれば、若松軍務局が監視していたのであろうか? 収容するにも城下にあった多くの建物が被災しているうえに降伏人の数が多いので、村に預けたことがあってもおかしくはない。預けられているなら脱走兵ではなく降伏人と呼ぶべきであるが、どうやら監視が緩く自在に出歩いていたらしい。榊原は越後高田藩のこと。

それから出掛けて来て徒らを致します、四條や私共は鉄砲を撃たれましたけれども怪我もいたしませぬ、怪我をいたしましたのは米沢の兵、これは一大隊ほど警衛に這入つて居る、ところが連夜暗殺のあるのは、米沢の藩ばかりだ、米沢は隣藩でもあり同盟した藩であるに、連夜米沢の藩ばかり暗殺せらるゝは不思議であるが、何か仔細があるのであらうと尋ねると世間の評判とは大に違ふ、会津人の言ふ所では、容保が参つた時分に会津より同盟を申込んだものでない、米沢から申込んだものである、共に安危を決しやうと云ふので、初の中はそれでやつて居つたが、官軍が下ると云ふことになつて始めて降伏したは米沢である、其の忌ま〳〵しさである、それ故に暗殺すると言つて連夜やる

 悪戯を「徒ら」とは酷い字の当て方をしたものである。奥羽列藩同盟とは会津救解のために東北諸藩が連合したもので、それが即座に薩長との対決を意味するものではなかった。ことに米沢藩を代表した宮島誠一郎は政治決着を強く主張し続けた。しかし、戦争へと先走ったのは世良修蔵を暗殺した仙台藩であり、旧幕府歩兵とともに白河城へ先制攻撃を仕掛けた会津藩であった。米沢の立場から考えれば、以上のような論理になるであろう。

米沢は恥ぢたものと見えて、巡察使に届出はないが、他から届けがある、何れが本当か知らぬが決して会津より米沢に頼んだのでない、米沢から頼んだと云ふ、何さま斯ういふ訳になつては米沢を会津の警衛に置くは不得策であるから、御免なさるが宜からうと云ふので、若松警衛は御免になつて、其代りは会津の親類が宜いといふので、尾張抔と云ふ二十五藩で寄つて会津の取締りを命じました、それから暗殺が減しました、全く米沢藩に激してやつたのが多うござります、

 米沢が恥じ入ったとすれば、降伏したのち若松攻防戦の末期に「官軍」として攻撃に加わったことであろう。しかし、会津藩は官軍となった米沢藩から降伏勧告を受け、また、降伏文書の取次を依頼してもいる。さらなる殺戮劇を防ぎ得たのは、降伏を仲介した米沢あらばこそという面もあって、戦後になってからの復讐は痛ましいことである。

そこで其後は米沢藩の居る時ほどでないが、出掛けて参つて官吏と見ると妨害をなす、巡察使も如何とも困つた末、軍務官から三宮といふが七等出仕で会津に出張がある、それから肥前の藩から槇村とか云ふが出張があり、種々巡察使でも手を廻はし、軍務官の方でも手を入れる、けれども暗殺がある、如何とも仕やうがない

 三宮は耕庵の名で陸援隊名簿に記載がある。実名は義胤。もとは近江の僧で、三上兵部と変名し、志士として活動した。戊辰戦争では仁和寺宮の小軍監をつとめた。遺体埋葬禁止令の虚構の伝承では新政府側で唯一の善人として登場する。埋葬禁止令は虚構だが、埋葬の場所や方法に制限があったので、かつて僧であった三宮が埋葬の便宜を図ったものかと思われる。肥前の槇村は不明。

皆様御承知の木首連の中に会津の大庭恭平と云ふ者がありました、此者は落城後榊原藩へ御預けで、越後の高田へ行つた、ところが丁度私が会津に参つたが、此の恭平は前より懇意にいたした者でござりますから、高田の御預け先きで官員録を見ると、若松出張岡谷何某とあつた、これは幸ひの事であるから岡谷に会はふと言つて、御預け先を出奔して仕舞つた、此の男は書を読みまして純然たる書生であるから、休んだ所や、泊つたところに詩を作つて名を書いて置いて来た、此へ逃げて来たと言はぬばかりで、何処へ逃げたと云ふことが皆な判る、其の時分に会津でも厳重にして居つたが、何処かに来て隠れて、さうして私の所へやつて来た

 大庭密偵説に対して首を捻りたくなる逸話である。名の知れた絵師が遊郭で襖に絵を描いて、代金を無償にさせることはあったようだが、大庭も路銀が足りずに詩を残したのであろうか。それにしても繁実と同様の無警戒ぶりであり、馬が合いそうに思える。

私は大に驚きまして「君は高田へ御預けの人でないか」「全く預けである、御預け先きで先生の名が官員録で見えたから逃げて来た、と云ふものは、一時国家の為めに尽した積りであつたが、斯うなつて仕方がない、御詫びに参つたのである、私の申すことを一応御聞取りを願ひたい、私は逃げも走りもせぬ、御預け先きを逃げたに相違ないが、何処其処に潜伏して居りますから御召捕ならは召捕り下さい」と云ふ

 まったく良い度胸で、大庭の度胸が歴史を動かしたのはたしかである。大庭がいう国家とは会津藩のこと。まだ全国一纏めの国家意識は広まっていない。

そこで私も旧の朋友でもあり、窮鳥懐に入ると云ふこともあるから、縛つて出すと云ふことも出来ぬ、さういふ訳なら軍務官の方巡察使の方に言はふと云つて、三宮にも其事を言つて、「これは逃げも走りもせぬ、縛つて出すと云ふことは役目であれどもドウしても出来ぬ、召捕ることは何時でも出来る」と云つた、軍務官も岡谷の言ふならば逃げもせぬであらうと言つて、大庭恭平は其儘潜伏して居りました

 元僧侶だけあって三宮もつくづく人が好い。繁実とは異なって官界にとどまり、宮内省式部長にまでのぼったので常識人であったろう。

ところが東京の軍務官から御沙汰があつて、御預け人が逃げたものであるから榊原藩から届けて、会津へ逃げた様である、何となれば道々詩を作つて居る、早速召捕るやうにと云ふ御沙汰があつた

 繁実は手配がまわった脱走人を匿うような形になったわけで、これだけでも免職の理由には充分なり得る。だが、前に述べたとおり表向きの理由は別件による。大庭の件を持ち出すとなると四條をはじめ三宮など、他にも多数の人に連が及ぶことになったろう。

さういふ訳で、召捕るならば何時でも捕れるが、私は本人を呼び出し、「国家の為めと云ふは何であるか」「イヤそれを申したくて上つたのである、他ではないが、御維新にもなり巡察使も御出でになつて居るに、毎夜の如くに暗殺がある、トンと御取締りが附かぬ、無政府と言つて可なりである、嘆息の至りである、なぜ之を御取締りなさらぬか」「君はさう言ふけれども実は困り切つて居る、二十五藩に申付けて二十五ヶ所に関門を附けてあるけれどもポン〳〵やらるゝ」と云ふと、恭平が「それは為されやうが宜しくない、御取締りを為され方で締りが出来る、取締りやうが悪いから締れぬ」「それではドウすれば宜いか」「其処に私が一説ござります、それを御聞取りを願ひたい此の暗殺すると云ふものは何百ヶ村に何千人の人が預つてある、手も何も届くものでない、其の連中が相談してやる、互に耳目となつてやつて居る、町人でも百姓でも会津人が殺したのは黙つて居ると云ふことになつて居る、会津へ御預けになつた者が出て来てやつて、会津の恩になつて居るから互に隠くして知れやうがない」「これは大にさうであらう」「それではドウすれば宜い」「容保の子敬三郎今の容大、此の人は明治元年落城少し前に城中で生れた人である、ドウか敬三郎に言付けて下さらば取締りが附きて乱暴をする者が無くならう、なくなつたならば、懇願であるが会津の社稷を立てて戴きたい、若し取締りが附かぬならば敬三郎は如何御処分になつても宜い、ドウぞ此の敬三郎に取締りをさせて貰いたい、と云ふ

 敬三郎は慶三郎の誤りで、意外や校正は杜撰である。誕生年は明治元年ではなく二年のことで、繁実が記憶違いをしている。

そこで一人の考へでもいかぬから軍務官にも相談した、其時此方に護送の準備をして居つた時で、敬三郎に取締りを申付ける抔は不都合と云ふことで反対論がある、私は「それならば取締が出来ねばならぬ」といつた、巡察使も軍務官も困つた、「非常の時であ(る脱)から非常の処置で敬三郎に仰付けてはドウであらう、といふと手に終へぬ時であつたから私の説の如く敬三郎に取締りを仰付られて、唯、取締りではいかぬから二十日間と日を切つた二十日間に取締りが出来たならば会津の社稷を立つることを巡察使から願つて下さると云ふことで、生れ子に二十日間の取締りをするやうと云ふことになつて、これが出来ねば予て御沙汰の通り敬三郎は東京に護送する、取締りが出来れば巡察使から会津家を立つる様に歎願してやらうと云ふ内約をした、大に喜んでさうして下さるならばやりますと云ふので、十日も経たぬに乱暴人は一人もない、天下太平である

 繁実の論法は、ほとんど恫喝といえよう。だが、その奥にあるものは善意である。

皆な是れまで内からやつた、会津の社稷を立つ様に巡察使から願つてやると云ふ内意を話したものであるから、今度は暗殺に歩いた奴が乱暴する者を取締ると云ふ風で、二三日すると鎮まつて、追々自首して参り、会津は鎮静して仕舞ふた、意外な話で好結果をえた、さうして見れば会津の社稷は歎願してやらねばならぬ、今度は東京へ上つて会津の社稷の立つ様にする、会津の喜びは怪しからぬことで、大庭恭平、原田などは国民総代で御送りすると云ふことで、誠之堂まで送つた

 繁実が「怪しからぬ」というのは、脱走人が堂々と見送りに出ることをいう。誠之堂は勢至堂峠のこと。会津から奥羽街道へ通じる道筋にある。

社稷を立てゝ下さることならば何処までも尽くすと云ふことで、私等が歎願に上京いたして、四條も歎願が立たねば辞表を出す考へ、私も其の考へで、それからこちらに出て来て岩倉公に其の事情を段々申して、ドウぞ猪苗代五万石やつて貰ひたい、さうすれば治まる、二十八万石と云ふは政府に益がある

 歎願した相手が岩倉とは意外であった。残念ながら岩倉の伝記『岩倉公実記』には四條と繁実の歎願に関する記事は見当たらない。

ところが城中で降参した者は男女老少となく米一升に銭二百文下さる、城外に於て降参した者は○○○、ところが会津全般では皆なそれをやつて居る、大方の者は人別になれば迷惑であるが、中等以下は人別の方が益になる、それで二十八万石を政府に取つても益がない、それより猪苗代五万石を以て社稷を御立て下さるれば二十八万石の人(じん)気(き)も治まるでござりませうといつた

 この部分は意味不明なことが多い。
 城内降伏組の間瀬みつ『戊辰後雑記』には開城直後に「一人前白米四合に弍百文づゝ天朝より被下様、被仰出候」とあり、白米の配給が間に合わないうちは干飯を支給されたことが出ている。また、明治二年秋に「黒米四合に弍百文つゝ壱人前に被下候処、毎日の御渡しにては手数に相成候に付、壱俵にて相渡り」とあり、降伏人の家族に対する扶助の実態が描かれている。繁実がいう一升は二人前以上になるので記憶違いであろう。
 伏せ字は速記者が聞き取れなかったためか? 仮に「無足人」が入るとすれば、扶持米で給与を受ける武士と、田畑を持たぬ小作農の二通りの意味がある。上級武士は知行という支配地域を与えられ、そこから徴収した年貢を俸禄とする建前であったが、旧会津藩には知行制が存在せず家老級の重臣も藩の米蔵から扶持米を受け取った。
 人別は、帰農して村方の人別帳に入るという意味か? だとすれば大方の者は帰農して農業を営むのは迷惑だが、中等以下は生活基盤が出来て益になると読める。武士や足軽は分限帳に入れられ、人別帳には入らない。
 この解釈が正しいとすれば、繁実は特権意識が強い旧会津藩士を帰農させることは困難であると見ていたことになる。それよりは、五万石に縮小しても武士として農村を支配する立場に置こうとしていたのであろう。降伏人として扶助し続けていては旧領二八万石を召し上げても意味がなく、五万石の領土で旧会津藩の士族が納得するならば得策であるということかと思われる。

それから六ヶ(むつか)しい議論で斗並三万石になつたが、あれは大変やり損なひで、巡察使の意見も行はれぬであつたが、三万石で家を立てました、と云ふが会津の大凡の成行でござります

 斗並は斗南の誤り。松平慶三郎に与えられた陸奥国南部地方の三万石の新領土が斗南と名付けられたのは明治三年になってからである。
 猪苗代五万石をめぐる「難しい論議」の決着を見たのは、明治二年一一月四日のことで、松平容大(慶三郎)に陸奥国において三万石が与えられた。それに先立つ一〇月二三日に繁実は広島藩御預けとなっており、「大変やり損なひ」の始末を聞いて臍をかんでいたに違いない。
 繁実の談話には続きがあり、米の廉売、城中の妖怪、また『会津事情』にはない雑談の類へと話題が移っていく。ここまでで重要な話題は揃ったので以下は省略しておこう。
 斗南三万石は「大変やり損なひ」と繁実はいう。しかし、それは旧会津藩士らが選んだ結果でもあった。
 旧会津藩士らの間でも御家再興の地について議論は紛糾した。大正六年六月発行の「会津会会報第十号」には、猪苗代に固執する一派と、陸奥国移住を主張する一派とが激論を交わしたという談話が掲載されている。
 東京で謹慎していた山川浩、広沢安任らのグループは、猪苗代に固執すれば新政府から無用の警戒を受けるとして陸奥国南部地方への移住を主張、猪苗代で謹慎していた町野主水らのグループは猪苗代を主張した。新政府との折衝は東京グループが主体であったが、ある日、町野が移住反対を訴えるため上京してきた。そして、「会津は祖先以来墳墓の地なるを以て会津地方に新封地を得て居据りたい、遠く斗南に移住するは厭だ」という若松グループの意見を強硬に申し入れたのである。尋常ならざる剣幕の町野を見た永岡久茂が、「町野君は新封地を実見した事もなく調査した事もなくして、徒らに斗南地方は見込が無いと云わるるは丸で無茶である」と、口を挟んだ。その場は口論のみでおさまったが、その夜には斬り合いになりかけたという。こうした紛糾があったのち、東京グループの主導で移住が決まったという内容である。
 一般に流布した斗南藩成立の通説では、松平容大の家臣代表が陸奥国への移住を希望する「内旨」を太政官に伝えたことが御家再興の決め手になったという。だとすれば、太政官から東京グループに陸奥国移住という「内意」を示されていたことになる。「内旨」はそれに対する回答だからである。だが、慶三郎を相続人に指名した「内意」は記録されながら、陸奥国移住案の「内意」、その回答である「内旨」についての記録が、一切ないというのは不自然に思える。
 一方で、猪苗代五万石案も四條知県事の「内意」である。正式に書面を交わしておらず、いわば密約でしかない。東京グループに示された太政官の「内意」と、猪苗代グループに示された四條知県事の「内意」とが、町野と永岡との激論に繋がったとすれば一本の線に繋がりはする。
 通説には繁実と大庭の名は登場しない。仮に通説が正しいとしても、御家再興の契機を生んだのは大庭が発案し、繁実が実行した奇策ではなかったか。たしかに猪苗代五万石の夢は潰えたが、大庭と繁実の功績を歴史の闇へ葬り去ることはあるまいに。
 新領土での米の実収は七〇〇〇石でしかなく、このことばかり取り沙汰されているが、領内には八戸藩から引き継いだヒバ林があり、下北半島には北前船の寄港地があり、むつ湾の漁獲もあった。さらに移住初年度には政府から現米で二万石が支給されてもいる。現米二万石は五公五民とすれば四万石の領土からの収入に相当する。しかし、移住者が困窮を極めたのも事実である。なぜそのような事態に立ち至ったか、それは本稿の主題からは外れることなので、今後の斗南藩史研究に期待したい。


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