罪深い捏造 大森貝塚の場合 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 学問に限ったことではなく、捏造はイケマセン。ウソは何処までいってもウソでしかないのです。捏造で得た名誉は、それが発覚した時点で剥奪されてしかるべきだと思います。
 いま話題のSTAP細胞のことを意識しての発言なんですが、いかんせん、私には理系の知識が皆無です。ただ、これだけはいえます。

 この世の中で「無い」あるいは「無かった」ことは証明できません。

 あるモノが存在したか、あるいは存在しなかったかで論争となった場合、無いことを証明してみせろと要求するのは「悪魔の証明」といい、それをいった側が負けを認めたも同然です。

 捏造は、ありもしないモノが、あったかのように見せかけることです。なにか証拠らしいものでもあれば「無かった」ことは証明できないので、さも「あった」かのように思われてしまいますし、どうしても「無かった」ことは証明できないので、その証拠らしいモノが贋物であることを証明することで、「あった」という主張が信用ならないことを示すほかありません。

 だから「あった」と主張する根拠が捏造だった場合、それを否定するのには捏造するのに比べて何倍も努力が必要です。捏造は罪深いことだと思います。

 学者が捏造するのは、いまに始まったことではありません。考古学だと「ゴッドハンド」事件があったのを覚えておられる方もあるでしょう。あの事件はアマチュアの捏造がプロの目を誤魔化したのですが、昭和初年には東大の大御所教授が捏造をやらかして、実に半世紀も続いた論争の火種をつくった例があります。

 大森貝塚の発見者であるモースの記念碑が、大森近辺には二つあります。

 その一つが、モースの発掘地点ではない場所にあります。ある事情から発掘地点をずらしたい人が居たためです。それは佐々木忠次郎という生物学者で、モースの直弟子だった人です。かねて佐々木はモースの記念碑を建立したいと考えていたのですが、思うように資金が集まらず、そうこうしているうちに、本山彦一という新聞界の大立者で考古学者でもあった人が呼び掛け人となって、モース記念碑の建立が具体化します。もちろん佐々木にも声が掛かり、佐々木は賛成人に名を連ねているのですが、そののちあえて別な地点に、もう一つの碑を立てました。

 モースの発掘に立ち会った佐々木が、もとの石碑の位置はモースの発掘地点ではないといいだしたのです。正しい位置に別な碑を立てるのだといって、二つ目の石碑を立てたのです。もとの碑は大森村(現在の大田区に所在)ではなく、区の堺を越えた品川区に位置します。ところが、佐々木碑(捏造)は、いままで何度も再発掘されましたが、佐々木の立てた碑の地下には貝層が出て来ません。そして、もとの碑の地下には、現在も貝層が遺されています。

 さすがに佐々木は東大教授です。佐々木が立てた碑は国指定史跡になっています。捏造でさえそんな名誉をもぎとっていく権威は、たいしたものです。

 しかし、それでもウソはウソなんです。

 史跡指定は取り消されていませんが、佐々木の立てた碑と、もとの碑とでは、保存公開のあり方が大きく違っています。


大森駅ホーム モース来日時と駅の位置が異なります。


佐々木碑(捏造)は、ビルとビルの間を抜けていったところにあります。


ビルの地下をえぐったかのような通路の先に線路があります。


線路ぎわ、人がすれ違えないほど狭い通路の先に佐々木碑(捏造)があります。


列車の窓から見えるように立てられているようですが、いまの電車はスピードがあるので、車窓から見えるのは一瞬だけです。


この地図は右が北になります。佐々木碑(捏造)から250メートル北に、もとの碑があります。


大田区から境目を超えた品川区にモースの発掘地点があり、いまは庭園になっています。


庭園の中心はこんな感じです。


モース像です。発掘したとき、まだ30代だったんですが像は老齢に見えます。


モースゆかりのポートランド市と、品川区は姉妹提携を結んでいます。


庭園から海側を見たところです。いまは埋め立てが進んで海岸線は見えませんが、当時は線路の向こうが海岸でした。


これがもとの碑です。これを立てるにあたって、再発掘が実施され、地下に貝層が存在するのを確かめています。


その再発掘をしたのは、私の祖父、大山柏です。


地下の貝層を見るための施設です。


このとおり、地下には貝層が現存します。

 困った事に、この地下に貝層があるからといって、それがモースが発掘したのと同じ貝層だということまで証明できません。

 一方の佐々木碑(捏造)は、地下から少量の貝が発見されたと報告されていますが、それがまさに捏造で、いまでは何者かが持ち込んだものだとされています。

 その捏造のせいで、どちらが本物か50年も論争が続きました。

 決着がついたのは近代史の分野でのことでした。発掘当時の土地所有者に発掘に伴う補償金を支払った史料が発見され、実は発掘地点が大森村ではなかったことが確定しました。大森駅に近いからモースは大森貝塚と命名したようですが、それが捏造の余地を与えてしまったのでした。

 なんにせよ捏造は許しがたいことです。しかし、なぜか学界は一度与えた権威を剥奪することをしません。佐々木碑(捏造)の国の史跡指定はそのままなのです。

 小保方女史の博士号が剥奪されないのも、学界の悪しき伝統なのでしょうね。


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