別府晋介 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

別府晋介、名は景長、弘化四年、鹿兒島吉野村に生る。島津侯の世臣別府十郞の子。明治戊辰、奧羽征討に從ふ。明治四年、近衞陸軍大尉となり、尋で少佐に陞る。五年、命により韓國に赴き、國情を視察して歸る。六年、職を辭して國に歸り、加治木外四箇鄕の區長となり、兼て私學校のために盡力した。十年の役、聯合大隊長として熊本城を圍み、四月鹿兒島に歸つて更に壯丁を募り、八代に於て官軍と鬪うて負傷した。爾來各處に轉戰し、九月二十四日、城山陷る時、西鄕隆盛傷ついて、其首を斬らん事を晋介に托す。晋介刀を揮つて之れを斬り、自ら西鄕の死を叫んで、敵彈雨下の裡に陣歿した。三十一歲。
 晋介は桐野利秋と從兄弟の關係ありて、常に交情懇ろにして、親密の度は兄弟の如きものがあつた。人と爲り、正廉淡白、初めて尉官となつた時、士官以下軍曹、曹長と共に、其受くる官俸を平均に分配して、決して私費しなかつたと云ふ。
 明治五年、命を蒙つて晋介は陸軍中佐北村重賴と共に韓國視察に赴いた。晋介、韓服を著け釜山より上陸して各地を視た。歸りて桐野利秋を訪ひ、韓國八道を屠るは僅に二三箇中隊で十分であると叫び、歡極つて耐へられざるの狀を示した。
 晋介、鹿兒島に歸つて區長となつた時、鄕內の某、願書を出して請ふ所があつたを、却下して了うた。後に至つておのが過失であつた事を氣付くと、直に提燈を照らして、深夜自ら某の家を訪ひ、今日の處置は我れ過つたと、深く謝して憚る處がなかつた。
 十年の役、熊本城攻圍に兵を損じ、補給のため、晋介は邊見十郞太等と共に、鹿兒島に歸つて壯丁二千餘を得て、陸軍の勢力を增した。此新銳の兵を提げて、一擧官軍の背後を衝き、八代方面を制せんとしたが、官軍の先鋒早くも川尻を破つて、城兵と聯絡を通じた爲に、晋介の奇襲も成功する事ができなかつた。
 八代の戰鬪に晋介、左足に重傷を負うて人吉に退いた。西鄕隆盛、慰悶の使を發して、隆盛今や軍を指揮して、兵力も衰へぬ、足下心靜かに療養を加へて、心を勞する勿れといはしめた晋介感激して、先生の一言は我れに千萬鈞の力を加ふ。正に良醫の治療に勝るものがあると喜び勇んだ。
 晋介、眉目淸秀、而も意氣凛然、秋霜の嚴なるものがある。西南の役、陣中に於て、一兵士の銀の指輪をはめてゐる者あるを見て、晋介之れを詰つた。兵士赧然として答へる事ができぬ。傍から戲れて、情婦の贈る物であると謂ふ。晋介乃ち其兵士の指を摑んで小刀で之れを切り、叱して曰く、かゝる痴態は吾軍の氣勢に關すると、見る者皆振慄した。
 九月二十四日、城山既に危急に迫り、西鄕隆盛重傷を負うた。乃ち晋介を顧みて、我れ此處に斃れんといひ、合掌、東を拜して死を待つ。晋介、時に負傷してゐたから轎に乘つてこゝ迄從うてゐたか、西鄕の此狀を見て、俄に轎を下り、御免あれといふより早く、其首を斷つて、西鄕の從僕に命じ、之れを竹藪中に埋めしめ。再び轎に乘りて、先生既に死す、先生と死を共にする者は、皆來つて死せよと大呼しつゝ、敵彈中に奮戰して死した。


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