池上四郎 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。


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池上四郞、天保十三年、鹿兒島に生る。藩醫貞齋の子。明治戊辰の役に從軍した。明治四年、朝廷、四大隊を薩藩から徵する時、四郞其一隊の長となりて上京し、近衞陸軍少佐に任ぜらる。明治五年、官命を以て滿洲地方を視察した。同六年、辭退して國に歸り、私學校の爲に盡瘁す。十年の役、薩軍の五番大隊長となり、後に本營に在って、軍の樞機に參與した。九月二十四日、城山陷落して戰歿す。三十六歲。
 明治三年、長州の奇兵隊、兵制の改革を懌ばずして、擾亂を釀し、遙に援を薩摩の西鄕隆盛に請うた。四郞曰く、名分無くして猥りに兵を動かすべからす、長州無名の軍を援くるは斷じて不可であると。これによりて援兵の議歇む。
 明治五年、韓國事件發生するや、西鄕隆盛深く慮る處あつて、副島種臣、板垣退助等と諮り視察委貝を韓國及滿洲に派遣して調査せしむる事にした。四郞其選に當り、土佐の武市熊吉と共に、外務省出仕に任じ、滿洲方面を視察に赴いた。五年八月十六日東京を發し、九月一日上海に着き、芝罘を經て營口に達し、六年四月、武市は歸朝したが、四郞は猶滿洲內地を巡遊して、七月七日歸朝して、其視る處を報吿した。此復命報吿は、後の征韓論發生に臨んで、征韓計劃の基礎をなしたものである。四郞の滿洲を旅行するや、地形、政治、兵備、財政、風俗等具に檢べ視た。四郞は姓名を變じて池淸劉和と稱し、商人を裝うた。其奉天に來り、南大門內の三益店に宿る時、騎兵將校胡得倫なる者來つて、四郞の國籍及來意等を尋ねる。四郞は商ひの暇を見て、勝地を探る者であるから、商品も携へず、武器も持たぬと答へた。彼れ曰く、內地の觀光なら四五日間の滯留は苦しくない。又營口道臺の路照なきも深く咎めぬとて立ち去つたが、之れよりして四郞の身邊には護衞と稱して、常に監視の者が付添うた。
 十年の役、薩軍の諸將、肥後川尻の本營に集つて、作戰について凝議する所があつた。四郞は熊本城に對しては若干の兵を駐めて、其城外に出るを遮り、全軍は南關に出で、一は馬關から一は長崎から、京畿地方へ進出するの策を樹てゝ進言した。篠原國幹は專ら熊本城强襲を主張する。其決を西鄕隆盛に乞ひ、遂に全力を以て熊本强襲する事をやめて、兵を分つて進出するの策を取る事になつたが、此時已に時機を失して、其雄志を遂ぐるに至らなかつた。
 薩軍、御船に破れて、矢部を發して江代に至つた時、野村忍介をして奇兵隊を率ゐて豐後へ向はしめ、四郞をして混成隊を率ゐ、日向三田井方面に向はしめた。三田井は要害の地點で、しかも豐後方面へ出るの咽喉であるから、此處を占めれば、大分や小倉への進出の路がつくといふ大切な土地である。四郞、乃ち本營を延岡に置き、豐後方面の指揮者野村忍介と提携して三田井方面の諸隊を統轄し、五箇所の彈藥製造所を設けて、持重の策を取つた故、官軍容易に之れを窮ふ事ができなかつた。四郞の技倆茲に於て大に發露した。


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