猪谷宗五郎「元帥大山巌」09 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

 余曾て當代の文豪たる德富蘇峰氏の著「三十七八年役と外交」を讀んで、滿洲軍參謀長兒玉源太郞伯が奉天戰勝後、微行して東京に還り、戰局打切りの爲めに、斡旋努力されたとの記事に至り、敍上元帥對山本伯の談話が後日兒玉伯に依つて事實として發現したものと直感し、人知れず獨り快心に首肯したのである、今其文を左に揭載せん、
三十七八年役の主なる目的は、朝鮮から露國の勢力を驅逐する爲めであつた。若し露國が鴨綠江外に、其の勢力範圍を引き上げ去るに於ては、日本は當初から決して開戰すべきではなかつた、日本の勢力を滿洲に擴張したるは、寧ろ戰勝より來れる豫期以外の所得であつた。唯此の豫期以外の所得に執著して、自ら底止する所を知らざる結果は、如何なる所に落ち著く可き乎。篤と考慮すべきは此の一點だ。而してそれに最初の解答を與へたのは、則ち滿洲軍參謀長兒玉伯であつた。彼は奉天戰爭後、微行して東京に還り、戰爭は此にて止めた方が日本の爲めに得策であることを切言し、苦言し、痛言し、遂に我が軍國の大方針を此の方面に回轉せしめた。固より兒玉伯一人の力とは云はぬが、身を挺して、論出したのは、彼を推さねばならぬ。云々
惟ふに蘇峰氏は、元帥が出征前既に此の戰局打切の時機までも、斯の如くに細心の注意を拂つて居られたと云ふ事實を或は承知せられなかつたであらう。
 是の如く元帥の持論宿志は、宣戰の目的さへ達成されたならば、一日も速に平和を克復して、干戈を收むるにあつたが、今這般の消息と、人並勝れて元帥の生靈を傷むの衷情とを一層明白に裏書されたのは、當時元帥の副官であつた三原辰次中將が、元帥薨去の際の感慨轉た切なる追懷談筆記であつて、之れを讀むさへ自ら感淚を催さしむるものがある、卽ち其全文を次に揭ぐることゝする。
   旅順開城祝捷會に出られなかつた
   元帥=淚潛々として訓示を讀まる
明治三十八年の正月旅順開城の捷報が滿州軍司令部に入電した。此時の我軍上下の欣躍は非常なもので總司介部に於ても三鞭を拔いて徹宵痛飮した。氣がゝりでならなかつた旅順が落ちたとすればもう此後はひた押しに攻め付けるのみだと勇氣は百倍した。此の時計りは誰しも心からの祝盃が擧げたかつたのである。兒玉將軍以下の幕僚は皆卓を圍んで盃を傾けたが、此の時は既に公爵(元帥を謂ふ)は就寢されて居つた。折角の祝捷會に總司令官が見えられないのが何となく物足りない。他の事と異つて旅順開城の祝捷でありますから何うか乾盃だけはして下さいとお願ひに行ったが「私は失禮させて貰ひましよう」と云つて聞き入れがない。後には將軍方が行かれるし遂には兒玉將軍が往つて「どうぞ」と云はれたが矢張り「失禮ですが寢させて下さい、私が出なければ「ステッセル」が叛くと云ふ樣なことなら參りますがネ……、然し皆樣はどうぞ私にお構ひなく充分お遣り下さい」と戲談交りに大人しく斷はられたので、一同もとう〳〵斷念して物足りないうちにも盛んなる祝捷乾盃が擧げられた、それにしても公爵が此目出度い祝捷會に列席されなかつた理由が誰にも分らなかつた。口にこそ出さないが一同の疑問として其の儘になつて居つた。其內に奉天も陷ちるし、鐵嶺も拔くと云ふ勢のうちに休戰となり、年の十月十六日平和克復の詔勅が下つた。同月二十四日總司令官は各軍司令官以下の指揮官を總司令部に集められて訓示を與へられた。訓示を朗讀されて居る中段頃の「……生命を本戰役に殞したる將卒に對しては悲痛哀悼を禁ずる能はず……」と云ふ點に至つて、はげしく落淚嗚咽された。訓示狀をお待ちになつた手は顫え、文章もよく聞き取れないまでに聲を吞まれて、暫時の間は淚が止まらなかつた、四圍の光景も爲めに森嚴となつて、一種云ひ知れぬ莊重な氣に包まれたのである。公爵が斯くも落淚さるゝと云ふのはよく〳〵の事である。怎麼に强く感激されたかゞ分る。此時私は電氣にでも打たれた樣に感じた一事がある。旅順開城の祝捷會に顏を出さなかつた公爵の眞意を電の樣に感知することが出來たのである、「旅順は落ちたが其處には數萬の生靈が犧牲とされたことを思はなければならぬ、然も戰爭は何時まで續けられるか分らないではないか、尙此後幾多の犧牲を要するのが實に苦しい、あゝ君國の爲めとは云へ、司令官の身としてこれ程切ない事はない。迚も祝捷の盃を擧げる氣にはなれない」と云ふのが、當夜の公爵の御胸中ではなかつたらうか、恐らく彼夜公爵は寢臺に顏を埋めて今お流しなすつた樣な血淚を絞られて居つたであらう、と思ふと長い間公爵の身邊にあつて御性格の一端だけでも吞み込み得た自分には、何故當夜公爵の御胸中を察する事が出來なかつたらうと思ふと、泌々と情なかつた。それと共と部下に對する公爵の眞情に泣かされた。今でも當時の事を思ふと胸が一ぱいになる。將に將たる大器量を持たれた公爵の胸には常にかうした優しい淚が湧いで居つたのである。尨大なる氣宇を持たれた樣にして、細心な思遣りがあつたのである。然しもうお目にかゝりたいと思つても、永劫にあの溫容に接する事が出釆ないのである。自分の父にでも逝かれた樣な哀傷を感ずる。
云ひたい事も澤山あるが、思ひ出でらるゝものは總て大なる敎訓であつて、中々容易に語り盡せるものでない。又語るに就いて哀しみを新にされるのも切ないから、一先これで御免被りたい。

嗚呼元帥が平和人道を尊重せらるゝ此の如く、生靈の慘亡を傷まるゝの衷情、誰か感嘆欽仰せざらんやである。この元帥の淚こそは眞に五千萬同胞の淚であつたのである。否、人類全體の上に注がれた尊い淚であつたらう。
 由來、元帥の故國薩摩では戰陣に於て敵味方の爲め戰死者の供養を行ふの風習があつて、之れを武者引導と稱した。威風鷄林八道に振ひ、武勳隨一の島津義弘、忠恆兩公の建立に係る彼の紀州高野山の慶長征韓役敵味方供養塔の如きは、實に方今赤十字博愛思想の先驅を爲したものとも云ひ得べきである。元帥が日淸役の際金州城外に淸國將卒の死屍累々として、酸鼻に堪へなかつたので之れを埋葬して、「淸國軍人戰亡碑」と題する一碑を建てられ、又劉禹田の歸化物語を始め、多くの陣中美談があつたのは、洵に床しきことである、蓋し是元帥が故國薩摩の傳統的美風を繼承されたものであらう。眞に武士道の精華ではあるまいか。(この項つづく)

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