よく思うのですが、技術職と営業職の間にはイムジン河が流れているなんて言われていますが、それって本当はルビコン川なんじゃないか?と。
今日も、打ち合わせの席で、やたら「技術職と営業職の連携が必要で~」なんて言いますけど、じゃあお前やれよ!と思う次第です。
ちょっとした下らない用であれば、メールでは無く電話で済ます、とか。
連携が必要だと思うのなら、それを行動に移す。
たったそれだけのことなのに、なぜそれが出来ないのか。
キッカケが無いとか、どう絡んでいいか解らないとか、そんなのやりたくないがための言い訳にしか聞こえないんですよね、はっきり言って。
きっかけのために営業の人と同行したとしても、今度はまた違う言い訳が出てくる気がする。
であれば、てっとり早く、営業・技術間メール禁止令、電話で話せ!ぐらいまでやった方がよっぽど強権的だけどまだマシ。
官僚たちの夏を見ていて、民間会社にも当て嵌まるなと思ったのですが、1つの物事を捉えるに当たって、複数の見方が出るのは当たり前なんです。
日本を良くしたい。
そこで国内派と国際派が出るのも、しごく当然。
そこで、お互いの主張を言い合い、よりベストな方向へ向かっていく。
それが理想なんです。
営業と技術という観点も、僕はさらさら営業職の人に技術職のことを思って欲しくないし、技術職の人に営業職のことを思って欲しくない。
僕は顧客のことを思うし、営業職も顧客のことを思って欲しい。
顧客のためを思うからこそ、対立は当然あるでしょうし、それをお互いに受け止めて、そういう見方もあるなと仕事をすることこそ、部門間の垣根を超えたシンフォニーを奏でるのではないでしょうか。
営業職が営業職のために自我を唱えるのは、単なる我儘であり、エゴです。
逆に、技術職が技術に拘り過ぎて、顧客に無理を強いるのもエゴです。
僕自身も当てはまるのですが、どれだけ顧客が喜びそうなものを作れるか、そこに僕は自分の仕事の面白さを見出そうとしています。
つまり、僕自身が顧客にならないといけない。
僕が顧客だったら、これは面白いんじゃないか。便利なんじゃないか。
そういう「自分の中の顧客作り」をしないとな、と思う毎日です。
だから、僕は現場に出たいなと思いますし、官僚たちの夏の風越もそうなんじゃないかなーと思います。
意思決定を下す自分と、その自分の中に意思決定を下される側の自分を持つ。
それが、人の痛みを知る心だと僕は思います。
玉木が、事務次官になって、それでも風越を追い越せなかったのは、彼の目標が風越であり、事務次官だったからではないでしょうか?
役職に人は就いてこない。
人に人は就いてくる。
では、営業「職」や技術「職」に、人は従うのか?
従いませんよね。
信じられる人を人は信じるでしょう。
だから、対立なんて……ねぇ。