仕事への誇りと、自分自身へのプライド | それもまた良し

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関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

誇りとプライドはどう違うのだろうか?
と、ふと思いました。


God と和訳すると神、という訳史上最大の誤訳があるように、プライドも和訳すると誇りになるのですが、何だか意味が違うな、という違和感を持っています。



ちなみに、日本では神は「八百万の神」という意味であり、唯一神であるGod とは絶対に相容れないのではないか、というのが僕の考えです。

よく、外国人が「オーマイ、ゴッド!」なんて叫びますが、ありゃ「神様ぁぁぁ!」と叫ぶ吉本新喜劇の桑原和子を指すものだと認識しています。
『罪と罰』のように、内なる神に対して知らせている、という意味だと僕は捉えています。

例えば、福井晴敏氏が書いた「ローレライ」でも、内なる神=天皇殺しとして「オーマイ、ゴッド」が登場しています(もっともこのあたりの天皇崇拝論は、小林よしのり氏の天皇論で何が正しくて何が間違っているか書かれているので省きます)。



となると、ふと思うのが「誇り」とは自分自身に関係して自分自身でないものに対して、名誉に思えることを「誇り」と言い、自分自身に対して自尊心を持つことを「プライド」と言うのではないか?と。

つまり、仕事であったり恋人であったり子供であったり、有形無形を問わず、自分にとって名誉に思える物・人・事に対して「誇り」とは言いますが、それらを「プライド」とはあまり言いません。


逆に、成果を出した自分自身に対しては「僕はプライドを持って仕事しましたから」と言いますが、「僕は誇りを持って仕事をしましたから」とは、あまり言いません。



つまり、恐らくですが、自分自身で所有出来ないものが「誇り」であり、自分自身で所有出来るものが「プライド」なのではないでしょうか?

概念的なものですが。



ということは、仕事に対して誇りは持てますが、仕事に対してプライドを持つというのは、余程のプロフェッショナルで無い限り難しい。
少なくとも、殆ど大勢の人間は、仕事に対してチームで取り組んでいますから。

チームに自分自身は所属していますが、自分自身がチームでは無いです。
汎用化したものがチームかもしれませんね。



となれば正しい使い方は「僕は、僕自身の能力やスキルに対するプライドがありますから、それに基づいて、今回の仕事に取り組みました。そして、出すことが出来た成果に対して、みんなの頑張りがあったこそだと、本当に誇りに思えます」……かなぁ。

逆に「僕がこの仕事するにも、プライドがあるからね」とかは、腹が立ちますね。